昨日、久しぶりに登城してまいりました!
(ま、早い話、近くまでいったついでに江戸城址見にいったということね)
ところが、あいにく昨日は休園日で御城内(=東御苑)には入れませんでしたが…、
大手門の高麗門(外側の門)が閉まってるのをはじめて見ましたーっ
あ~、そうかそうか、閉まってるときはこんな感じなのか~
いやいやいやいや、いいもん見たな~うっひょ~い

んで、気分アゲアゲになったところで内桜田門(桔梗門)・坂下門・和田倉門跡ももれなく巡回。
そして最後に将門塚へ。
じつはゴマのご先祖は俵藤太こと藤原秀郷さんの家来筋でして、将門公にしてみたらガチの敵方でございます
なので、ここと神田明神に行くときはちょっとビビるのですが、幸い今までお持ち帰り等はありません(……お願い…そうだと言って)
そんなこんなで、何度もきている将門塚なのですが、昨日は2つも新発見がありましたっ

発見1:
かの有名な伊達騒動の原田甲斐が斬殺されたのはここだった
伊達騒動とは、仙台伊達家でおこった御家騒動です。
詳しく説明すると面倒くさいのではしょりますが、家督相続やら所領争いやらなんやらかんやらで問題がデカくなり、家中では解決できなくなって最終的に幕府が介入。
寛文11年(1671年)3月、双方の関係者が大老・酒井忠清(下馬将軍)邸に呼ばれ、審問がおこなわれていました。
と、その審問中、控室にいた原田宗輔(原田甲斐)が伊達宗重(伊達安芸)を斬殺。
さらに原田は血刀引っさげて、大老・老中のいる部屋に突進。
驚いた柴田朝意(柴田外記。宗重派)が原田と斬りあいになり、互いに負傷。聞役(=江戸留守居役)の蜂屋可広も柴田に加勢し、原田を阻止。
大混乱の中、酒井家家臣も乱入し、原田は即死、柴田は当日中、ある意味とばっちりで斬られた蜂屋は翌日死亡
関係者死亡により騒動の決着は、藩主綱村→お構い無し・仙台藩本体セーフ、原田家およびそのボス・伊達宗勝(伊達兵部)の一関藩→改易となりました。
ってことは、ここで死んだのは原田さんだけでなく、伊達安芸さんもです
慎んでみなさまのご冥福をお祈りいたします…南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。

発見2:
今年のお題本に載っていた神田明神の由来、
「そこに通りかかったのが時宗の遊行僧・他阿真教(1237~1319)で、彼は念仏によりこの霊(=将門)を慰め、時宗の柴崎道場が設けられたといわれる」(江戸の祭礼と祭事P20)

テキストでは時宗の遊行僧としか書いてなかった他阿さんですが、彼の所属寺が将門塚の立て看板により判明したのです

『東京都指定旧碑 将門塚』
「平将門は、平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。
徳治2年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。
その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました」

「そこを通りかかった」などと書いてあるものですから、なんかフリーのお気楽な坊さんかと思っていたら…遊行寺の二世…
とんでもなくエライ人じゃないですかー
しかも遊行寺つーたら、箱根駅伝3区と8区の難所「遊行寺の坂」でしか知らなかったけど、調べてみたら時宗の総本山だったんですね
(遊行寺は通称。正しくは清浄光寺(神奈川県藤沢市))
ウィキさんによると、この将門塚は、
「時宗における怨霊済度の好例」だそうで、時宗って怨霊を鎮めるハウツーでも持ってるんでしょうか
で、この遊行寺ですが、なんでも「生類憐みの令」では金魚の保護を担当していたそうです。
「1694年、幕府は飼っている金魚を届け出るように義務付けた。金魚を手放す者が増えて清浄光寺に放生された」
「生類憐みの令」って、金魚まで登録制だったのか…めんどくさ…