今年度最後の強化合宿に参加してきた。
トレセンは久しぶりだった。
トップアスリートのための施設であり、ここを利用できてこそ本当のアスリートだと当初は考えていた。
自分の抱くアスリートの概念は燃えよ剣の土方が武士に対する思いとある意味似たような部分があるかもしれない。
合宿の練習やトレーニングはハードだった。しかし消耗し痛めている関節の痛み以外には大きな問題はなくそれなりについていけた。
結局、体力的なものはトレーニングで補えるが怪我などで痛めている部分に対してはなす術がない。
最終日の最後のプムセ練習もかなりハードでテグプムセでは身体がフラフラで受けや突きも全く力が入らず形をするのが精一杯だった。
金剛辺りから持ち直して集中して平原までやり切った。
持ち直したのは精神的な集中の切りかえができたからだ。
心身ともに消耗しきっていたが精神力が回復したのかスイッチを入れることができた。
普通の精神状態であれば痛みや疲労で殆ど動けない状態でも覚醒レベルが高いと動ける。
言葉では上手く表現できない感覚だが集中力には一定のレベルが段階的にある。
高い覚醒レベルにまで持っていくには日頃の練習でどこまで集中できるか、にある。
精神的な力が強いと身体が疲労の強い状態でもある程度のカバーをできる。
フィジカルトレーニングもかなりハードな内容で可能な限りストリクトに取り組みつつも筋肉痛はこれまでに比較してかなり少なかった。
普段のウェイトトレーニングの効果がもっとも影響しているだろうと思われる。
この体格で100kgのバーベルのスクワットをやっていれば普通の人よりは強靭な身体を作れる。
自分の門下生も合宿に参加したがどうしてもフィジカルの弱さが目に入ってしまった。
身近にこれだけトレーニングや練習をしている人がいるのだから何か気づいて欲しいなと常々思っている。
フィジカルモンスターと言われた事がある。
自分の年齢であの内容についていける人は中々いない。
とはいえ自分では平凡な体力にしか思えないのが本音。
これは昨年度強化指定選手として最後の2月の合宿から帰ってきた夜に書いたもの。
強化指定選手とは何なのか。
選手として競技に取り組む時、トレーニングや練習へどのような姿勢で取り組むのが大切なのか。
言葉を耳にして、または読んで頭で分かるのと体感として分かるのは全くの別物なのかもしれない。
以前、怪我などで蹴りがまともにできなくなると崖から落ちそうな怖さが感情としては込み上げてきた。
痛みでできなくて泣いたりはしない。それどころでは無い。
誤魔化した動きでも良いから、どうすればできるか?!を必死に探りながら練習をしていた。
何故、そのような感情が出てきたのか。
かつて末期ガンの祖母の病室へ行き小さな大会で取ったメダルを見せながら祖母へ何かを言っていた。
20年以上前。
多分、そこに原点がある。
かつて抱いていた価値観は1度全て崩れていき俺は死ぬのか生きるのか。
改めて口先だけの自分自身を見直す機会があった。
その時に祖母へは行動から生み出した思いを伝えた。
口先ではどのようにも言える。
自分はそんな薄っぺらい人間にはなりたくはない。
マインドが全ての土台となる。
当たり前な練習やトレーニングの大切さを理解するのも、どんなマインドを形成しているかにかかっている。
同じものを見て目指している筈なのに違う。
いや、それが普通なのか。
何も伝わっていない。
儚く虚しい気持ちになることもある。
人との距離をおき課題の分離を強く意識する。
確かに苦しんでいる祖母へメダルを見せながら思いを伝える、そんなシーンを体験する人は少ない。
真剣になるほど虚しく儚くなる事も増える。
そんな時は改めて後ろを振り返る。