ナポレオンの戦略・戦術レジュメ

第1.結論

(1)各個撃破の内戦作戦も分進合撃の外線作戦も会戦での数の優位を確保するためにいかに機動するかの会戦が始まる前の戦略の話。いずれの場合も自軍根拠地との背後連絡線を切断されないことは条件。機動力を得るために軍団師団制を創設しロジスティクスは現地調達主義とする。

(2)いざ会戦になったときの戦い方は戦術の話。歩兵・砲兵・騎兵を統合運用し、敵軍の正面が広く拡がっている場合には攻撃重点を中央に向ける。敵軍の正面が緊縮かつ強固な場合には攻撃重点を敵軍の翼側面に向ける。自軍の戦力が著しく優勢な場合には敵軍の両翼に同時に攻勢をかけてもよい。敵軍の均衡が崩壊した後は、敵軍各部隊を各個撃破するか包囲殲滅し、逃走する敵軍部隊を追撃する。

(1)(2)のいずれもあくまで野戦軍をどう活用するかの話。
20世紀に登場した総力戦をどう戦うかは一つ上位の次元の話。

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(1)の「機動力を得るために軍団師団制を創設しロジスティクスは現地調達主義とする。」に関して次のような反対説がある。

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(A)機動力は革命により軍の規模が劇的に拡大し、要塞が無力化されたため獲得された。そのため後年、地理的要因から多くの攻城戦を余儀なくされたスペインにおいては苦労した。

(B)現地調達も、クレヴェルトが指摘するように17-18世紀において普通に実施されていた。むしろクレヴェルトは、ナポレオンの方こそが後方からの持続的な補給を可能にしようとした最初の軍人であったと指摘している。

(C)師団編制は1740-8年のオーストリア継承戦争で試されている。これらが広まらなかったのは、大軍を分散し、移動展開を相互に調整し、再び迅速に集結させるのに必要な道路と地図が、思うように手に入らなかったため。革命よりも政府と測量士の努力が構想を現実に変えた。

第2.戦略

1.ナポレオンの書簡集などから導かれるナポレオンの戦略の5つの原則

(1)ただひとつの作戦ラインしか存在してはならない
(2)敵軍の主力を目標にする
(3)敵の側面・背後に回りこむ
(4)敵を補給地、友軍、主要都市から切り離す
(5)自軍の背後連絡線を確保する

2.ナポレオンが好んだ戦略的機動の3つのパターン

(1)背後への機動:自軍の兵力数が優るとき
(勝利)
1796年ロディ
1800年マレンゴ
1805年ウルム
1806年イエナ
1807年フリードランド

(2)中央位置各個撃破作戦:自軍の兵力数が劣るとき
(勝利)
1796年モンテノッッテ・デゴ
1796年ロナト・カスティリョーネ
1797年リヴォリ
1814年シャンポーベル、モンミラーユ、ヴォーシャン
(敗北)
1815年ワーテルロー

(3)戦略的突入:背後への機動、中央位置作戦の前段階での突進
(勝利)
1796年モンテノッテ・デゴ
1800年マレンゴ
1805年ウルム・アウステルリッツ
1806年イエナ
1812年ニエメン河渡河

第3.戦術

1.Nの戦術の3つの原則
(1)つねに攻撃する
(2)つねに混乱させる
(3)側面・背後に回りこむ

2.ナポレオンの戦術的機動

(1)単純な正面攻撃による戦闘
(勝利)
1809年ワグラム
(辛勝)
1812年ボロジノ
(敗北)
1814年ロティエール
1815年ワーテルロー

(2)敵の側面・背後に回りこむ
(勝利)
1796年カスティリョーネ
1796年アルコレ
1805年アウステルリッツ
1806年イエナ
(辛勝)
1807年アイラウ
(敗北)
1813年ライプツィヒ
1814年ロティエール
1815年ワーテルロー

(3)二重戦闘
(勝利)
1805年アウステルリッツ
1806年イエナ・アウエルシュタット

第4.ナポレオン軍の軍制

1.編成:軍団/師団制
2.戦略レベル:大隊方陣
3.戦術レベル:混合隊形(オーダーミックス)

中隊140名×6=840名=大隊
→大隊(840名)×4=3360名=連隊
→連隊(3360名)×2=6720名=旅団
→旅団(6720名)×2=13440名+砲兵・騎兵=師団(約20000名)
→師団(約20000名)×2~4=軍団

第5.ナポレオン戦争の解説者達

1.クラウゼヴィッツ戦争論
2.ジョミニ戦争概論
3.マハン海軍戦略
4.リデルハート戦略論