ナポレオンは行動の人であり戦略思想家ではなかった。無名将校時代に勉強したサックス「わが瞑想」、ブールセ「山地戦の原則」、ギベール「戦術概論」、デュ・テイユ「野戦における新砲兵の運用」の理論を実行したにすぎない。軍事的天才たる所以は不確実性の支配する実戦で常に勝利した実行力にある。
相互連絡線の確保できていない分進合撃は各個撃破される。第一次イタリア遠征でボナパルト将軍がオーストリア軍を撃破したのはこの原理に基づく。
ロナト・カスティリーオーネの戦いで、分進するオーストリア軍がガルダ湖が障壁になって相互連絡が取れないことを利用したり、アルコレの戦いで沼地を戦場に選定してオーストリア軍の兵数優位を相殺したりと、ボナパルト将軍は戦場の地形の特性を自分に有利なように利用するのに非常に長けている。
各個撃破というのは、多方面から自軍を包囲しようとする敵に対する守備的な戦い方。だから1796-97年の第一次イタリア遠征や1814年のフランス戦役では綺麗に決まった。
ナポレオンの戦史を読んでいて気づいたこと。仮に戦闘で敗北しても自軍拠点との補給連絡線を切断されない場所から敵軍を攻撃する。これは概して、自軍の補給連絡線正面に予備軍を配置しつつ、敵軍の補給連絡線に向かって、即ち敵軍の翼面ないし背後を目指して機動することを意味している。 一つの戦闘で敗北しても戦略的には戦役を立て直すことができるところがポイント。オプションを用意しているという点で戦略的であると言える。1796年のロディの戦い、1800年のマレンゴの戦い、1805年のウルムの戦いでナポレオンはこうした戦略的機動を行っている。
ボナパルト将軍は、戦場での数の優位を確保するため、分散配置していた師団を、戦場となる地点に向かって徹夜で急行させ、そのまま戦闘に投入したりした。このような用兵であったため兵士の消耗は激しく、ボナパルト将軍が指揮する軍の1ヶ月の損失は、通常の軍の3ヶ月分に相当したという。
アルプス越えの後のマレンゴの戦いでは致命的な判断ミスでナポレオンは敗北寸前。それを救ったのはドゥゼ師団が援軍として到着した事とケレルマンの騎兵隊による敵左翼への突撃であった。しかし後年ナポレオンは自分の判断ミスを敵を誘い出すための計画の一部だったと歴史を改竄した。ちょっとセコイ。
ウルムでのナポレオンによる包囲機動が成功し、アウステルリッツでの連合軍による包囲機動が失敗し逆にナポレオンに中央突破された理由。前者は戦略レベルでの機動であり自軍の翼面を墺軍に晒すことはなかった。後者は戦闘中の戦術レベルでの機動でありナポレオンに自軍の翼面を晒してしまった。
ナポレオンの戦史を読んでいると、ナポレオンは常に大胆な戦略を取ったが、自軍根拠地との背後連絡線を敵軍に切断されてはならないという原則は順守して機動していることに気付く。「大胆と無謀は異なる」ということだ。
厳冬下のアイラウの戦い。露軍側面を衝く作戦が伝令が捕虜になり露軍にバレる。小競り合いから予定外に会戦に突入。中央オージェロー師団が吹雪で道に迷い露軍正面に側面を晒し砲撃を受け崩壊、ミュラ騎兵師団の突撃で何とか立直し。ネイ師団が仏軍左翼に到着して何とか引き分けに。実質的に初黒星。
ワグラムの戦い。ダニューブ河をロバウ島北側から渡河すると偽網し東側から深夜に渡河。右翼のダブー軍団は墺軍左翼に攻勢をかけ、左翼のマッセナ軍団は背後に機動しようとする墺軍右翼を阻止。手薄になった墺軍中央に百門の砲列で砲撃、仕上げにマクドナルド軍団の歩兵が墺軍中央を突破し撃破。