
(解説)
古代のこの喜志の地は支子の茅原と呼ばれた。
社伝では崇神天皇(2世紀~3世紀)の創建としているが志貴県主神社とともに河内では
最古の神社の一つとされている。喜志付近は出雲系の豪族が居住した地と
されているが仁徳朝に掘られた和邇池の名称や祭神よりみて出雲系の豪族が
その祖神を祀ったものと思われる付近の古墳などから五世紀ごろには
開けていたことがしられている神社は大社形式で建てられていて
みくくるとは水泳、水潜の意で五彩の巨蛇を封じるために祀られたという伝説がある。
(由来)
祟神天皇(人皇第十代)時代、この地に大蛇が多く出没し、農民を悩ましたので天皇は「これは大国主神の荒御魂の荒ぶなり。よろしく祀るべし」とおっしゃった。その頃、丹波の国の氷香戸(ひかとべ)の子に「玉藻鎮石。出雲人祭、真種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底宝御宝主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神、底宝御宝主也。」(たまものしずいし。いずもひとのいのりまつる、またねのうましかがみ。おしはふる、うましみかみ。そこたからみたからぬし。やまかわのみくくるみたま。しずかかるうましみかみ、そこたからみたからぬし)という神のお告げがあり、天皇はそれをお聞きになって、活目入彦命(いくめいりひこのみこと・垂仁天皇)を河内国支子に遣わし当社を祀らせ、美具久留御魂神社(喜志の宮)と御名を称えまつられたのである。
このお告げは「出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾(わに)神(龍神)であり、水泳御魂大神(みくくるみたまのおおかみ)である」と美具久留御魂大神の御神体を明らかにされたのである。
美具久留御魂神社は歴代天皇からの崇敬が厚く、文徳天皇の嘉祥三年(850)には神階を従五位上に進められ、光孝天皇は河内大社の勅額を奉納された。
また延喜式には官幣に列せられ当国二の宮石川郡の総社とも称せられた。南北朝時代には南朝歴代のご信仰も厚く、また楠木氏は、上水分社(建水分神社 千早赤坂村鎮座)と共に当神社を下水分社と称し氏神として信仰してきたので、戦乱の間にも朝廷はしばしば参拝されたり、社殿を造営されて治世の安泰をお祈りされた。
平安時代、正東山という神宮寺が建てられ、隆盛に向かった。鎌倉時代末、鎌倉方が赤坂城を攻めたとき、西条城(喜志)と共に焼き払われたが、間もなく再建され、天正の頃には十七坊に及び香をたく煙が漂い、儒教の教典を読む声が神山にこだまする一大霊地となっていた。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めの兵火を浴び、再び灰燼と帰した。以後数十年間は復興されなかったが万治元年(1658)から復興がはじまり、同三年にはほぼ元通りの姿を取り戻した。明治に入って、氏神を合祀し、厄難消除や縁結びの御神徳、またすべての生業の守護神として信仰を集めている。
古代のこの喜志の地は支子の茅原と呼ばれた。
社伝では崇神天皇(2世紀~3世紀)の創建としているが志貴県主神社とともに河内では
最古の神社の一つとされている。喜志付近は出雲系の豪族が居住した地と
されているが仁徳朝に掘られた和邇池の名称や祭神よりみて出雲系の豪族が
その祖神を祀ったものと思われる付近の古墳などから五世紀ごろには
開けていたことがしられている神社は大社形式で建てられていて
みくくるとは水泳、水潜の意で五彩の巨蛇を封じるために祀られたという伝説がある。
(由来)
祟神天皇(人皇第十代)時代、この地に大蛇が多く出没し、農民を悩ましたので天皇は「これは大国主神の荒御魂の荒ぶなり。よろしく祀るべし」とおっしゃった。その頃、丹波の国の氷香戸(ひかとべ)の子に「玉藻鎮石。出雲人祭、真種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底宝御宝主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神、底宝御宝主也。」(たまものしずいし。いずもひとのいのりまつる、またねのうましかがみ。おしはふる、うましみかみ。そこたからみたからぬし。やまかわのみくくるみたま。しずかかるうましみかみ、そこたからみたからぬし)という神のお告げがあり、天皇はそれをお聞きになって、活目入彦命(いくめいりひこのみこと・垂仁天皇)を河内国支子に遣わし当社を祀らせ、美具久留御魂神社(喜志の宮)と御名を称えまつられたのである。
このお告げは「出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾(わに)神(龍神)であり、水泳御魂大神(みくくるみたまのおおかみ)である」と美具久留御魂大神の御神体を明らかにされたのである。
美具久留御魂神社は歴代天皇からの崇敬が厚く、文徳天皇の嘉祥三年(850)には神階を従五位上に進められ、光孝天皇は河内大社の勅額を奉納された。
また延喜式には官幣に列せられ当国二の宮石川郡の総社とも称せられた。南北朝時代には南朝歴代のご信仰も厚く、また楠木氏は、上水分社(建水分神社 千早赤坂村鎮座)と共に当神社を下水分社と称し氏神として信仰してきたので、戦乱の間にも朝廷はしばしば参拝されたり、社殿を造営されて治世の安泰をお祈りされた。
平安時代、正東山という神宮寺が建てられ、隆盛に向かった。鎌倉時代末、鎌倉方が赤坂城を攻めたとき、西条城(喜志)と共に焼き払われたが、間もなく再建され、天正の頃には十七坊に及び香をたく煙が漂い、儒教の教典を読む声が神山にこだまする一大霊地となっていた。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めの兵火を浴び、再び灰燼と帰した。以後数十年間は復興されなかったが万治元年(1658)から復興がはじまり、同三年にはほぼ元通りの姿を取り戻した。明治に入って、氏神を合祀し、厄難消除や縁結びの御神徳、またすべての生業の守護神として信仰を集めている。
この地方には大和時代の歴代天皇の墓や聖徳太子の墓があるので、
3連休を利用して見学に行こうと思っていたが行けず。
3連休を利用して見学に行こうと思っていたが行けず。