『天武の時代』(山本幸司著、朝日選書)
『日本書記 巻第28第29天武天皇』(宇治谷孟現代語訳、講談社学術文庫)
を読みました。

以前、『信長公記』を読んでいて、元亀元年に始まる危機の時代における
琵琶湖周辺での信長の置かれた軍事的立場が、イタリア遠征におけるガルダ湖周辺での
ボナパルト将軍の軍事的立場に類似した点があるなと思い読んだことがあります。

双方とも琵琶湖、ガルダ湖の南端に位置し、
湖の東側、西側沿いに北方より迫りくる2つの野戦軍と
自らの背後に位置する敵陣地に脅かされるという状況です。

このような場合の定石は、
兵力集中・各個撃破の「内線作戦」でしょうが、
ボナパルト将軍は、クラウゼヴィッツも『戦争論』の中で絶賛した
軍事的決断によってこれを成し遂げオーストリア軍を撃破します。
また、信長も基本的には内線作戦をとりつつ、朝廷を利用した政治工作と
強運に助けられこの危機を乗り切ります。

さて、琵琶湖周辺での日本古代史に
おける大きな戦争といえば「壬申の乱」です。

壬申の乱 壬申の年にあたる672年、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と天皇の長子である大友皇子が、皇位継承をめぐって起こした内乱。大友皇子は敗北して自殺し、翌年、大海人皇子は即位して天武天皇となった。

この際、大友皇子は琵琶湖南端の大津京に陣取ります。
これに対し、大海人皇子は、琵琶湖北端の近江と美濃の境にある不破(関が原)に陣取ります。
そして、琵琶湖の東側、西側沿いに大津京目指して兵を南進させます。
また、大津京を背後から脅かすべく琵琶湖南方の飛鳥周辺を確保します。

このように、大海人皇子は、大津京を完全包囲する「外線作戦」を行い、そして勝利します。
大友皇子は、これに対し、信長やボナパルト将軍のように敢然と「内線作戦」を
実施していたならば勝利できたのでしょうか。

『天武の時代』と『日本書記』を地図とにらめっこしながら読んだ限り、
兵力の分散とかをこのような状況で行っているので、
大友皇子が勝利することは難しかったのではないでしょうか。。。

第1次世界大戦におけるドイツ軍のシェリーフェンプランもそうですが、
優れた作戦計画もそれを「実行」する者の資質によって左右される好例ではないでしょうか。

これに対し、大海人皇子は、野戦軍自体は指揮してませんが、
吉野を脱出する決断力、軍事における速度に対する理解、
兵力を集結する政治力、戦力を配置する戦略眼において、
優れた軍事指導者であったといえると思います。
(日本書記は天武天皇の意を受けて編纂されてはいますが。。。)

壬申の乱に勝利した、大海人皇子は、
「天武天皇」舒明天皇3年(631年)?生ー朱鳥元年(686年)9月9日没
として即位します。

「天皇」の称号や「日本」国の名も彼に始まるといわれ(通説)、
八色の姓の制定や国史の編纂などにより律令体制を整備し中央集権を完成させます。

部屋で初秋のこおろぎの鳴声を聞いて、
なんとなく吉野っぽい景色を思い浮かべながら
『天武の時代』と『日本書記』を読みました。
最高にクールな人物だと思います。