ブレネー・ブラウンの責めることについて

拙訳です。

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あなたは「人のせいにする人(ブレイマー)」ですか?
なにか起こった時に、まず誰のせいかを知りたい人ですか?

私の名前はブレネーです。私はブレイマーです。
カンタンに説明します。

2年前に私は「責めること」の重大さに気づきました。 

その時私は自宅のキッチンにいてピンクのセーターを着て白いパンツを履いていて、コーヒーを飲んでいました。
カップいっぱいにコーヒーが入っていました。それをタイルの床に落とし、百万滴にもなったコーヒーが私の体全体に飛び散り、最初に、つまり床に落ちた百分の1秒後に私の口から出てきた言葉は、 
「スティーブめ!」でした。スティーブは夫の名前です。

というのも、この百分の1秒間に私が何を考えたかというと、
スティーブは友人たちとウォータポロをプレイするのですが、
前日の晩、ウォータポロに行くと言うので、「帰ってくるまで私が寝れないの知ってるよね?10時までに帰ってきてね」と言ってあったのに
10時半に帰ってきたのです。だから寝るのがいつもより少し遅くなりました。
夫が10時に帰ってきていたら飲まなくてすんだはずの2杯めのコーヒーだったのです。

で、その後どうなったかというと、キッチンをきれいにしていたら
スティーブが電話をかけて来て、表示でスティーブだとわかったのですが、「やぁ、調子はどう?」と言うので 
「は?調子?あのねぇ、訊かれたから言うけど、
こぼしたコーヒーを拭いて…」

ツーツーツー、ダイアルトーンが聞こえました。

夫は私のことをよくわかっていますからね。

ここにいる人の中で何人くらいが、なにか起こった時に、「まず誰のせいか?」を知りたい人ですか?

私は、誰のせいでもない、とするくらいなら自分のせいのほうがマシだと思う性格です。
そのほうがうわべだけでも事態を把握できてると思えるから。

今から人を責めるのを好む人なら多分聞きたくなくて指で耳を塞ぎたくなるようなことをいいます。

「『責めること』は『単に不快と痛みを放出している』のだ」という調査結果があります。 
責任という概念と逆相関、反比例している、ということです。

定義としての責任は、傷つきやすい無防備なプロセスです。 

反比例している、というのは例えば私があなたに電話して「こういう事が起こってとても傷ついているの」と言うようなもので、責める、のとは違います。 
「責めるということ」は、単に「責めている人」が持っている怒りを放出する方法のひとつなのです。

なにかが起こると責任者に責任をとってもらおうとやっきになる人が大勢います。
これは私たちが15秒間怒りを持って全エネルギーを費やして誰の責任かを問う性質があるからです。 

そして人を責めることは人間関係をむしばみます。責めることで共感が起こるチャンスを逃しているのです。
というのも、なにかが起こってその話を聞いている時、私たちは耳を傾けて聴いていないのです。
そういう話を聞いている時になにをしているかというというと、私がやっていたようにすばやく「誰のせいか」を考えているのです。