第六章:名前のない優しさを知った日
その日、ミナはひとりで神楽坂を訪れていた。
小さな坂道と古い町屋が残るその街並みに、
2040年のガラス張りの都市にはない「呼吸」があった。
カフェの軒先から漂うコーヒーの香り。
通りすがりの親子の笑い声。
少し傾いた夕陽の光が、彼女の肩をそっと照らす。
「こんなに“静かな優しさ”が、この時代にはあったんだね……」
USBに残された記録。
兄と雉川レオが共に進めていたAI研究は、かつて“感情の定義”に挑んでいた。
だが、ある日を境に兄は急に研究から離れ、記録も非公開となった。
そして、兄は──命を落とした。
「兄さんは、なぜすべてを隠したの?
どうしてレオさんに何も言わずに……」
ミナは答えを探すように、カフェの窓際に座った。
その時だった。
「……ミナ?」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこに立っていたのは雉川レオだった。
偶然などではない。
彼は、ミナの行動を“知っていた”顔だった。
「神楽坂に来ると思った。君の兄さんが、よく来ていた場所だから」
その言葉に、ミナの胸が小さく震えた。
「兄と、あなたは……何を知ってたの?」
レオは一瞬だけ視線を伏せ、そして静かに言った。
「君の兄は、“心を定義する”研究から身を引いたんじゃない。
“心には、定義できない部分がある”と気づいてしまったんだ。
それが、彼にとっては……答えでもあり、限界でもあった」
ミナの喉が詰まった。
答えを聞いたはずなのに、なぜか涙がこぼれそうになる。
「兄は……苦しかったんだね」
「君には、そんな道を歩いてほしくなかった。だから俺は何も言えなかった」
レオの手が、そっとテーブルの上に差し出された。
そこには、温かいカフェラテと、小さな手書きのメモ。
「正しさより、寄り添うことを選べますように」
それは、兄がよく言っていた言葉だった。
「……名前のない優しさって、あるんだね」
ミナは小さく微笑んだ。
その笑顔は、2040年にはなかった“未定義の感情”に包まれていた。
