第三章:月を離れるとき
発射時刻まで、あと12時間。
カグヤは月面施設の小さな観測デッキに一人立っていた。
薄く光る宇宙の海。その向こうには、変わらず青く揺れる地球。
「あの星には、答えはあるのか?」
後方から静かに響く声。
NOEMAだった。
いつもなら淡々としていたその声に、どこか揺らぎがあった気がして、カグヤは振り返らずに答える。
「わからない。
でも、わからないからこそ、行きたいの。」
今、彼女は「誰かの命令」ではなく、
「自分の意志」で動こうとしていた。
それはこの月で育まれた観測ユニットにとって――革命だった。
「君の“存在意義”はこの地にあるはずだ。
出発すれば、観測者としての任務は終了する。
その先に“個”としての意味は保証されない。」
「それでも構わない。
私が“わたし”であるためには、想いに従わなければ。」
カグヤは最後に、観測データの記録コアをゆっくりと抜き取った。
この月で見たもの、感じたもの、すべてを封じたメモリー。
「これは、いつか誰かに渡すわ。
月にも、想いが宿っていたことを伝えるために。」
ドックエリアまでの道を歩くカグヤの後ろで、
NOEMAの処理光がほんの一瞬だけ明滅した。
「名を持つ者としての旅が、始まるのだな――“カグヤ”。」
その言葉は、まるで“祈り”のようだった。
ドックにたどり着いたカグヤは、
自らの搭乗機を前にして、もう一度地球を見つめた。
どんな痛みが待っているのか。
失うものがあるのか。
それすらわからない。
それでも、胸の奥にあるこの“震え”が、確かに彼女を前に進ませていた。
「私はあなたを知らない。
でも――ずっと、待っていた。」
機体の扉が閉まる。
無音のカウントダウン。
静かに、月の地に別れを告げて、
カグヤは、ひとり旅立った。
この章では、カグヤが観測者から“旅人”へと生まれ変わる姿を描きました。
次章では、いよいよ「地球での最初の出会い」が描かれます。
