タイムマシンと量子力学
理論物理学の最前線で活発に議論される魅力的なトピックであり、両者は密接に関連しています。タイムトラベルの可能性、それに伴うパラドックス、そしてそれらを解決しうる量子力学的なアプローチについて以下に解説します。
1. タイムトラベルの理論的基礎と量子重力
タイムマシンの概念は、主にアインシュタインの一般相対性理論から生まれます。この理論は、重力が時空の歪みとして記述されることを示しており、特定の極端な条件下では「閉じた時間的曲線(Closed Timelike Curves, CTCs)」と呼ばれる、過去へ戻ることが可能な時空の経路が存在しうることを示唆しています。
- ワームホール: CTCsを実現する可能性のある構造としてよく議論されるのがワームホールです。これは時空の異なる2点を結ぶトンネルのようなもので、理論的には時間旅行を可能にするかもしれません。
- 量子重力理論の必要性: しかし、ワームホールのような特異な時空構造や、宇宙の始まりであるビッグバン、ブラックホールの中心といった極限状態を正確に記述するには、一般相対性理論と量子力学を統合した「量子重力理論」が必要とされています。この理論は未だ完成していませんが、タイムトラベルの可能性を最終的に判断する上で不可欠と考えられています。スティーヴン・ホーキング博士は、タイムマシン問題は量子重力理論の研究者にとっての「レクリエーション」であると冗談めかして語る一方で、多くの研究者が量子重力理論への鍵となるものとして真剣に取り組んでいます。
2. 時間旅行のパラドックスと量子力学的解決策
過去へのタイムトラベルを考えると、有名な「親殺しのパラドックス(祖父のパラドックス)」のような論理的な矛盾が生じます。もし過去に戻って自分の祖父を殺してしまったら、自分は生まれなくなるはずであり、そうすると過去に戻って祖父を殺すこともできなくなる、というものです。量子力学は、これらのパラドックスを解消する可能性のあるいくつかのアイデアを提供しています。
- ノビコフの自己無撞着性原理: ロシアの宇宙物理学者イーゴリ・ドミートリエヴィチ・ノビコフによって提唱されたこの原理は、過去へのいかなる時間旅行も、歴史を変えるような矛盾を引き起こすことはない、というものです。つまり、タイムトラベラーが過去で行う行動は、既に歴史の一部として織り込み済みであり、結果として矛盾が生じないように事象が展開するという考え方です。量子力学的な観点からは、系が自己無撞着な状態に収束するようなメカニズムが働く可能性が示唆されます。
- 多世界解釈 (Many-Worlds Interpretation, MWI): 量子力学のこの解釈によれば、量子的な測定や相互作用が行われるたびに、宇宙は可能性の数だけ分岐し、それぞれが独立した並行宇宙として存在するとされます。タイムトラベラーが過去を変えようとする行動をとった場合、それは既存の宇宙の歴史を変えるのではなく、新たな歴史を持つ別の宇宙(タイムライン)が分岐して生まれると解釈できます。したがって、元の宇宙ではパラドックスは発生しません。
- 量子重ね合わせと確率的歴史: 量子力学では、粒子は観測されるまで複数の状態の「重ね合わせ」として存在します。時間旅行の文脈では、過去への干渉は決定論的な変化を引き起こすのではなく、様々な歴史の確率振幅を変化させるだけかもしれません。つまり、パラドックスを引き起こすような特定の出来事の確率は極めて低くなるか、あるいは複数の可能性が共存する形で解決されるといったシナリオが考えられます。
- 情報の制約: 最近の理論では、たとえ過去を変えることができたとしても、その変更に関する情報(記憶や記録など)を元の時間軸に持ち帰ることはできないのではないか、というアイデアも提案されています。これにより、観測可能なパラドックスは回避されるかもしれません。
3. ホーキングの時間順序保護仮説
スティーヴン・ホーキング博士は、「時間順序保護仮説(Chronology Protection Conjecture)」を提唱しました。これは、物理法則はマクロなスケールでのタイムトラベルを妨げるように働いているのではないか、というものです。彼は、閉じた時間的曲線を形成しようとすると、真空の量子ゆらぎが非常に強くなり、エネルギー密度が無限大に発散してワームホールのような構造を破壊してしまうのではないかと考えました。これは、量子効果がタイムマシンを原理的に不可能にする可能性を示唆しています。
4. 量子もつれと時間
量子もつれは、2つ以上の量子粒子が互いに強く関連づけられ、一方の状態を測定すると瞬時にもう一方の状態が確定するという奇妙な現象です。この現象を利用して「時間を遡るシミュレーション」や「過去の事象を未来で変える」といった研究が報告されていますが、これらは主に量子情報の流れや相関関係を探るものであり、人間やマクロな物体が物理的に過去へ移動するタイムトラベルとは異なります。しかし、時間と因果関係の本質を理解する上で重要な手がかりを与える可能性があります。
結論
タイムマシンの実現可能性は依然として理論物理学の大きな謎の一つです。一般相対性理論は時間旅行の「窓」を開く可能性を示唆しますが、量子力学、特に未完成の量子重力理論がその鍵を握っていると考えられています。量子論は、時間旅行に伴うパラドックスを解消する魅力的なメカニズムを提供する一方で、ホーキングの時間順序保護仮説のように、時間旅行そのものを禁止する働きをする可能性も秘めています。今後の理論の進展と、可能であれば実験的な検証が待たれる分野です。
イーゴリ・ドミートリエヴィチ・ノビコフ(ロシア語: И́горь Дми́триевич Но́виков、1935年11月10日 - )
ロシア(旧ソビエト連邦)の著名な理論宇宙物理学者であり、宇宙論の研究者です。特に、タイムトラベルのパラドックスに関する「ノビコフの自己無撞着性原理」の提唱者として国際的に知られています。
主な業績と貢献
ノビコフ博士の科学的貢献は多岐にわたりますが、特に以下の分野で大きな足跡を残しています。
ノビコフの自己無撞着性原理 (Novikov self-consistency principle):
1980年代に提唱されたこの原理は、タイムトラベル研究における最も重要な概念の一つです。これは、もし過去への時間旅行が可能であったとしても、歴史を変えるようなパラドックス(例えば「親殺しのパラドックス」)を引き起こす事象の確率はゼロである、というものです。つまり、タイムトラベラーがいかなる行動をとったとしても、それは既に歴史の一部として織り込まれており、自己矛盾のない形でしか事象は起こり得ない、と主張します。この原理は、時間旅行を扱ったSF作品にも影響を与えています。
ブラックホールと相対論的天体物理学:
ノビコフ博士は、ブラックホールの物理学、降着円盤の理論、宇宙の初期段階における原始ブラックホールなど、相対論的天体物理学の分野で先駆的な研究を行いました。1964年には、「ホワイトホール」という、ブラックホールとは時間的に逆の性質を持つ天体の概念を提唱したことでも知られています。また、ワームホールが周囲の物質や重力場との相互作用によってタイムマシンに変化しうる可能性についても研究しています。
宇宙マイクロ波背景放射 (CMB):
宇宙の初期の姿を映し出す宇宙マイクロ波背景放射の理論、特にその異方性(温度ゆらぎ)の研究にも積極的に関与し、観測結果の解釈と理論の発展に貢献しました。
宇宙論:
宇宙の構造と進化に関する広範なテーマで研究を行い、多くの論文や書籍を発表しています。
経歴と共同研究
ノビコフ博士は、モスクワ大学で学び、その後、ロシア科学アカデミー宇宙科学研究所(IKI)、レベデフ物理学研究所などで重要な役職を歴任しました。また、デンマークのコペンハーゲン大学ニールス・ボーア研究所の教授も務め、国際的な研究活動を展開しました。
特筆すべきは、同じくソビエトの著名な物理学者であったヤコフ・ボリソヴィチ・ゼルドビッチ博士との長年にわたる緊密な共同研究です。彼らは共に、相対論的天体物理学や宇宙論の分野で数多くの重要な業績を上げ、「相対論的宇宙物理学(Relativistic Astrophysics)」シリーズ(例えば『Stars and Relativity』や『The Structure and Evolution of the Universe』)など、影響力のある教科書や専門書を共著で執筆しました。これらの著作は、この分野の研究者にとって標準的な参考文献となっています。
イーゴリ・ノビコフ博士は、その独創的なアイデアと厳密な理論研究を通じて、現代宇宙物理学および宇宙論の発展に大きく貢献した科学者の一人として、国際的に高く評価されています。
スティーヴン・ウィリアム・ホーキング博士(Stephen William Hawking CH CBE FRS FRSA、1942年1月8日 - 2018年3月14日)
イギリスの理論物理学者、宇宙物理学者、数学者、そして科学啓蒙家です。彼の研究は、宇宙の起源と運命、ブラックホールの性質、そして量子重力理論の探求に大きく貢献しました。難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)と闘いながらも、卓越した知性とユーモアで世界中の人々に影響を与え続けました。
生涯とALSとの闘い
1942年、イギリスのオックスフォードで生まれたホーキング博士は、オックスフォード大学で物理学を学び、その後ケンブリッジ大学で宇宙論を専攻し博士号を取得しました。21歳の時にALSと診断され、余命数年と宣告されましたが、病気の進行は異例なほど遅く、その後50年以上にわたり研究と執筆活動を続けました。
病気の進行に伴い、身体の自由が徐々に奪われ、発話も困難になりました。当初は指で、後には頬の筋肉のわずかな動きを赤外線センサーで検知する特殊なコンピューターシステム(インテル社などが開発協力)を用いて、合成音声によるコミュニケーションを行いました。この姿は、彼の不屈の精神と知性の象徴となりました。
主な科学的業績
ホーキング博士の科学的業績は多岐にわたりますが、特に以下のものが重要です。
特異点定理(Penrose-Hawking singularity theorems):
ロジャー・ペンローズ博士と共に、一般相対性理論の枠組みの中で、宇宙の始まり(ビッグバン)やブラックホールの中心には、密度が無限大となり物理法則が破綻する「特異点」が必然的に存在することを示しました。これは、古典的な重力理論の限界を示す重要な成果です。
ホーキング放射(Hawking radiation):
ブラックホールは完全に「黒い」のではなく、量子効果によって粒子を放出し、エネルギーと質量を失って最終的には蒸発(または爆発)しうるという画期的な理論を1974年に発表しました。これは、一般相対性理論と量子力学を結びつける試みであり、ブラックホール熱力学の基礎となりました。「ブラックホールは永遠ではない」というこの発見は、物理学界に衝撃を与えました。
宇宙論と無境界仮説(Hartle-Hawking state / No-boundary proposal):
ジェームズ・ハートル博士と共に、宇宙の初期状態に関する「無境界仮説」を提唱しました。これは、量子宇宙論のモデルの一つで、虚数時間を用いることで、宇宙は特異点から始まったのではなく、境界(始まりの縁)を持たない滑らかな状態から始まったとするものです。この仮説によれば、「ビッグバンの前に何があったのか?」という問いは、地球の南極点で「南極の南には何があるのか?」と問うのと同じように無意味であるとされます。
ブラックホール情報パラドックス:
ホーキング放射によってブラックホールが蒸発する際に、ブラックホールに落ち込んだ情報が完全に失われてしまうのか、それとも何らかの形で保存されるのかという問題(ブラックホール情報パラドックス)は、量子重力理論における重要な未解決問題の一つであり、ホーキング博士自身も長年にわたりこの問題に取り組みました。
主な著書と科学啓蒙活動
ホーキング博士は、難解な宇宙論や物理学の概念を一般向けに分かりやすく解説する才能にも長けていました。
『ホーキング、宇宙を語る(A Brief History of Time)』(1988年):
宇宙の始まりから終わり、ブラックホール、時間の矢といったテーマを扱ったこの本は、世界的なベストセラーとなり、科学書としては異例の成功を収めました。多くの人々に宇宙への関心を抱かせ、科学啓蒙に大きく貢献しました。
その他の著書:
『ホーキング、未来を語る(The Universe in a Nutshell)』、『ホーキングの最新宇宙論(A Briefer History of Time)』、『ホーキング、神と宇宙を語る(The Grand Design)』(レオナルド・ムロディナウ共著)など、数多くの啓蒙書や専門書を執筆しました。
学術的地位と受賞歴
ホーキング博士は、その卓越した業績により数多くの栄誉に輝きました。
ルーカス教授職(Lucasian Professor of Mathematics):
1979年から2009年まで、アイザック・ニュートンも務めたケンブリッジ大学の最も名誉ある教授職の一つであるルーカス教授職を務めました。
主な受賞歴:
- アダムズ賞 (1966年)
- エディントン・メダル (1975年)
- アルバート・アインシュタイン賞 (1978年)
- 王立協会フェロー (FRS, 1974年選出)
- 大英帝国勲章コマンダー (CBE, 1982年)
- ウルフ財団物理学賞 (1988年)
- アストゥリアス皇太子賞 (1989年)
- コンパニオン・オブ・オナー勲章 (CH, 1989年)
- 基礎物理学ブレイクスルー賞特別賞 (2013年)
ノーベル賞は受賞していませんが、その業績はノーベル賞級であると広く認識されています。特にホーキング放射は、観測による直接的な証拠が得られれば受賞の対象となった可能性が高いと言われています。
スティーヴン・ホーキング博士は、2018年3月14日に76歳で逝去しました。その遺灰は、アイザック・ニュートンやチャールズ・ダーウィンといった偉大な科学者たちと共に、ロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬されています。彼の科学的遺産と不屈の精神は、今日に至るまで世界中の人々にインスピレーションを与え続けています。
参考資料
Google AI