「人を殺してはいけないってことはないんですよ、別に法律で決まってることでもないですから」

 「人を殺しちゃいけないっていう法律はないです」

 

「ミステリという勿れ」第2話で主人公が言い放ったセリフである。私の友人は第1話放送後の予告編でこの言葉を聞いて衝撃を受け、このドラマを最後まで見続けることに決めた、そうである。

 

なんのことはない、これは刑法における刑罰論の一説(あくまでも学説に過ぎない)の一部であり、学者なら誰でも知っている。

私は忘れもしない3年前の7月20日、「天気の子」公開初日の翌日に、我が師である刑事法学者の卵から全く同じ言葉を授かり・・・それは正確に言えば“我々は人を殺してはならないという規範を国家から与えられていない、ただ人を殺したら刑法典に規定された刑罰を受けなければならないということに同意したに過ぎない”という言葉である・・・衝撃を受けると同時に救済されたのであった。

 

それは、我々は自分以外の誰からも、国家からでさえも、「正しさ」を強制されていないのだ、という意味である。

 

更にそれは、前日に見た「天気の子」のテーマと同じである、というのは飛躍であろうか。「天気の子」は、100人の正しさよりも“自分だけの正しさ”を選択し、葛藤を抱えながらもそれでも起こしてしまった結果を力強く肯定しては乗り越えんとする、見方によっては自分勝手極まりない上に開き直るという、そんな問題作だった。

 

「ミステリという勿れ」よりもずっと前から私は、いかなる行為規範であっても国家から強制されず、誰から非難されようとも自分だけの「正しさ」を貫き通すことができるのだと、「天気の子」から教えられたのだった。

 

 

2022年は新海誠監督の商業デビュー作である「ほしのこえ」初上映から数えて20周年になる。

2002年2月2日、トリウッドという席数僅か45席のミニシアターで、「ほしのこえ」が上映された後、客席から磊音のような拍手が鳴り響き、その残響のようなものが今でも新海監督の原動力となっている・・・これは新海信者にとって、常識中の常識。

 

「ほしのこえ」を映画館で上映できるのは下北沢トリウッドのみであり、新海信者にとってははじまりの地であり、聖地である。

尚、下北沢は私の生まれ育った街であるから、個人的にもはじまりの地であり、生地である。

 

そのトリウッドで2月2日から3月6日までの一ヶ月間、恒例の“新海誠祭り”もとい“新海誠監督特集2022”として、新海作品が一挙上映された為、例によって時間の許す限りトリウッドに入り浸ることとなった。

 

 

霞ヶ関から下北沢まで地下鉄1本、30分で到着。

あらゆる紛争の坩堝であると共に法的紛争が完全に消滅するゼロ地点から、「君と僕」の物語に昇華される清冽な仮想世界であると共に新海監督作品生誕のゼロ地点へと、30分で至る落差が異次元。

 

 

「秒速5センチメートル」と「君の名は。」と、「天気の子」。

これが私の中での新海誠監督作品鉄板3部作である(「ほしのこえ」は別枠である)。

 

“新海祭”の期間中、「秒速」を7回・「君の名は。」を3回・「天気の子」を1回観に、聖地を訪れることができた。

 

「秒速5センチメートル」だけが突出した来館回数になっている理由↓

 

7回中4回目で見事当選!まぁ、その回の当選率は10%程度だったのだが、それでも今年一番の運を使い切ったな。

 

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当選したポスターに映り込むニャース

 

しかも3種類ある中で、一番好きな第二章「コスモナウト」の絵柄が!

 

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3月3日と3月4日はどちらもほぼ満席だった。この日は新海信者にとって特別な日である。

 

3月3日は、2007年3月3日「秒速5センチメートル」公開記念日。

 

そして翌3月4日は、タカキがアカリに会いに、栃木まで行った日なのである。


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7回もほぼ連続して見ればセリフを暗記どころか、タカキの心情と一体化してしまい、そのうちタカキが自分なのか自分がタカキなのか分からなくなってしまった。

 

まったくこれだけ連日、自身の私利私欲な欲望を、権利とか義務とか責任とかいう言葉にすり替えた紛争を山のように処理していたら、心が“日々弾力を失って”しまいそうになり、“かつてあれほどまでに真剣で切実だった思いが”、たった一つ残された純粋な自身の欲望が、“綺麗に失われていることに気付き”、残された時間の全てを公僕として捧げる覚悟が付いてしまったよ。

私は完全にタカキにシンクロしてしまったのだろうか。

 

 

 

2020年夏に、同じくトリウッドで上映された“新海祭2020”以来、久々にスクリーンで見た「君の名は。」、3回とも涙、涙の洪水で心を洗われた。

2020年初夏、TOHOシネマズで10回近く見た「天気の子」を見たのは時間の関係上1回だけであったが、今回もしっかりとあのシーンで、腑から出ずるような魂の咆吼を体感した。

 

 

その2作に比べれば、「秒速」はそこまで泣きはしないし、感動も起きない。それでも“一番好きな新海作品は”と問われれば今でも「秒速5センチメートル」と即答できる。一番泣くのは「君の名は。」であるし、一番感動するのは「天気の子」であるにもかかわらず。

 

理由は明快。「秒速5センチメートル」が私にとって初めての新海作品だからである。今から丁度7年前のこの季節、私は新海作品に出逢ってしまった。いわば「秒速5センチメートル」は初恋である。

 

つまり、「秒速5センチメートル」が初恋なら、

「君の名は。」は最愛であり、「天気の子」は神である。

 

 

 

あれから7年経ち、改めて「秒速5センチメートル」を見れば、この作品を一言で言い切れば“感傷と郷愁のナルシズム”だな、と、羞恥心が最早麻痺した状態の私は1人納得する。誰にどう馬鹿にされようとも、わざわざここに集い鑑賞する我々は、ただひたすらに、ナルシスティックな感傷と郷愁に身を沈めていたいだけなのだ。

 

解釈が分かれる「秒速5センチメートル」のラスト、タカキはアカリへの想いを完全に吹っ切り、新たな人生への一歩を歩み出したのだ、という解釈が正しいとされているようだが、私の解釈は異なる。これまでも度々力説してきたように、タカキの想いは永遠に続く、というのが私の結論だ。

 

もっとも7年の時の経過と、7年で積み上げた経験値は、その想いを穏やかなものに変えていた。それ故にタカキの踏み出す一歩の先に、アカリではない別の女性のシルエットもはっきりと見えるようになった。

 

それでもあの物語はアカリとすれ違う踏切で終わっている。続きはその後の新海作品でのみ繰り返される。解釈が変わったのではない。喪失の疼くような痛みが、甘やかな懐かしさへと鎮められたに過ぎない。

 

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小学校の卒業式の校庭で、“もう一度会いたい”の一言が言えずに終わった私の初恋が、その後永い時を超えて奇跡のように実ったのは7年前だった。恋は実れば終わるのであり、果たされぬ想いだけが永遠に続く。誰からも教わらなかったよ、結実は喪失のはじまりだなんて。

 

あの日失われた想いはもうどこにもない、ように思える。だが、「秒速5センチメートル」では失われた恋が今も息づいている。

あの世界に足を踏み入れれば、いつでも恋をしていた頃の自分にまた会える。だから私は“今日も明日も明後日も、その先もずっと”、「タカキとアカリと、あの頃の私たち」に会いに行っては、いつでも感傷とノスタルジーに自己陶酔するのだ。

 

3月25日。それは2056年、8年前にミカコが送ったメールがノボルに届いた日。

 

遂に“好き”の言葉を交わすことなくあの小田急線の踏切で立ち尽くしていたタカキは、夢の中で掌に“好きだ”の文字を綴ることができ(君の名は。)、須賀神社から見上げた空の彼方の彼岸で“手を繋ぎ合い”(天気の子)、この世界で再び手を取り合って終わった。

 

では、タカキの魂の彷徨は終わったのであろうか?否、「秒速5センチメートル」では果てなき想いが続いている。いまでも、いつまでも。