音楽で止めを刺す

 

しばしば「竜そば」は「歌が凄い」「圧倒的な歌唱力」「映像美と音楽に圧倒された」などと評価される。

 

のっけから身も蓋もない言い方をしてしまうが、それって、「映画としては」評価出来ないってことじゃないだろうか?

裏を返せば、「(映画としてはイマイチだけど)歌と映像〝だけは〟良かったよ!」と、実に屈辱的に酷評してるのと同じじゃないだろうか。

 

これを新海作品に置き換えれば即座に理解できる。誰も「野田洋次郎(三浦透子でもよい)の圧倒的な歌唱力が凄い!」「音楽は良かった」とは言わないでしょうに。

 

確かに冒頭流れる〝U(ユー)〟by KingGnuの常田大希が率いるMillenniumParade通称ミレパが劇中のBelleとコラボして中村佳穂に歌わせた曲(説明、長っ!)、は凄い。実は、あの曲を流した予告編を見て、全く見るつもりがなかった本編を映画館で、しかも初日に見る羽目になった次第である。

結果、「初回が最高視聴率で、その後じりじりと下がり続け最終回ちょっとだけご祝儀で盛り返して終了した残念なドラマ」を見させられたようだった。

 

 

映画を見なくとも〝U〟の世界観を余すことなく表現し尽くしたこのMVだけで満足だ。

 

なんでこんなことになってしまったのか。理由(というより文句)は山ほど出てくるが、新海作品と比較して1つ大きな違いがある。

楽曲を、1人のアーティストに任せたか複数のアーティストに依頼したか、である。

 

「竜そば」では主人公〝ベル〟が仮想空間における歌姫であるから、人々の心を震わせ感動の嵐を巻き起こす歌がなければ話にならない。だから、歌唱力が魅力的な声優が1人いて、あとは力のある複数のアーティストに楽曲を依頼し、各々1曲ずつ、最高峰の出来を寄せ集めよう、と細田守は考えたのであろう。


この方法による大きな欠点がある。

 

1つは、映画の世界観の不統一である。世界観は複数のアーティスト各々の解釈に委ねられる為、1つの映画としてはバラバラの印象を与えることになるからである。

その結果、映画全体の世界観と音楽の融合によるシナジー効果が望めなくなる。これが第2の欠点だ。

 

「音楽と映像は凄い」って、映画の評価としてどうなんだろう・・・?

 

新海誠は、RADWIMPSと組んでの2作目である「天気の子」では、複数のアーティストの起用などという美味しいとこ取りの贅沢はしない。野田洋次郎一本釣り。ガッツリとタッグを組み共闘共作の末、野田洋次郎と心中する勢いである。

 

「天気の子」で採用された5曲のうち、特にコアとなる3曲については2バーションある。映画で流れたムービー・バージョンと原曲であるコンプリート・バージョンを聞き比べると、単に尺を合わせたとか歌詞を変えたといった小手先改変でないことが分かる。

具体的には、こんな風に、野田洋次郎と一緒になって本編を創り上げていった訳だ。↓↓↓

 

 

映画公開前、RADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」を聞いた時にはまったく心に響かず、なんだかダルい曲だな、としか思わなかった。ミレパの「U」を聞いて不覚にも公開初日の劇場に走ってしまったのと真逆である。

 

 

ところが映画ではこの曲が2度も流れるのであるが、2度とも不覚にも大号泣させられるのである。

1度目は、帆高が須賀に追い詰められて拳銃の引き金を引き、銃砲を轟かせた瞬間、一瞬の静寂のうちに観客を呆気に取らせ、そのタイミングで野田洋次郎のブレスからのソロパート「何も持たずに 生まれ落ちた僕…」。あのタイミングが圧倒的にズルい。

 

音楽の尺に合わせた階段を駆け上がるシーン、空の上に飛び込んで、壮大な陽菜の救出劇「グランドエスケープ」、呼吸する間も与えない感動の波状攻撃。

 

実は当初あのシーンに当てられた曲は「愛にできることはまだあるかい」であったのを、よりスケールの大きな曲を、と野田洋次郎に再オーダーして「グランドエスケープ」に差し替わったものだという。

 

 

ラストの再会シーンは、野田洋次郎から上がってきた曲「大丈夫」を聞いて脚本を変えている。

「大丈夫」の原曲は、地の底から這い上がってくるような泥くさい力強さがあるが、映画に合わせて更にそぎ落としたムービーバージョンは、帆高の心の叫びを歌詞に乗せ、よりエモーショナルに、帆高と陽菜の再会をドラマティックにオーケストラで支える。

 

それは帆高のモノローグに乗せて、静かにイントロが流れ…

 

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坂の上で陽菜を見つけた瞬間いきなり流れるボーカル、 

「世界が君の小さな 肩に乗っているのが 僕にだけは見えて 泣き出しそうでいると…」

 

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再会~ラストのセリフ「大丈夫だ!」まで間奏曲で流し、

 

 

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新海映画でお馴染み,最後にバーン!なタイトルバックと同時に、

 

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再びボーカル、「世界が君の小さな肩に乗っているのが…」。

 

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曲に合わせて主要キャスト、主要スタッフが表示され、宇宙をバックに(!)「原作・脚本・監督 新海誠」でエンド。

 

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一瞬の間を置いて被せるように主題歌「愛にできることはまだあるかい」のボーカルがふたたび静かに流れるエンドロール。この間流れ続ける涙が乾くことはない。

 

この「間合い」が天才的なのである。新海誠は。

 

主人公の情動を映像と音楽で表現するだけではなく、観客の呼吸をしっかり捉えて放さない「間」。のみならず、「お客さんにはここでグッと来て欲しい!」という監督の罠にまんまと嵌まり、観客の情動をも牽引し操ろうという、魔の「間」の使い手なのである。

この手法、ナルシスティックな陶酔について行かれない人も多いが、既に監督と世界観を共有出来ている信者にとっては、共に多いに酔いしれては心をグッと捕獲されてしまうのである。

 

映像、音楽、セリフ、キャラクター、そして脚本。どれを欠いても傑作は生まれない。

新海作品においてはとりわけその映像美と、「ただのMVじゃないか」と揶揄されうる音楽が重要なポジションを占める。映像美は「世界の美しさ」を、音楽は「主人公の心」を、それぞれ代弁し、それらは一体となって「世界観」を創り上げる。

 

 映画は、作品の中に潜む世界が全てである。映像も音楽も、ストーリーもキャラクターも、セリフも脚本も、全ては世界観に環流される。

中でも音楽は、人の五感の作用のうち耳で心に訴えかける作用が極めて大きい。

新海誠は恐らく、ずっと前から、音楽が人の情動に訴えるパワーを熟知していたはずだ。野田洋次郎と心中して作り上げた作品は、時に曲に合わせて脚本を変え、曲からヒントを得てラストを変え、曲を作り直させ修正を厭わない。その過程において新たな視点が生まれることもある。

全ては世界観の構築の為である。

 

それは調和を遥かに超越し、破壊と和解と融合の末のアウフヘーベン。最高峰を目指す映像と音楽を一体化させたことによるシナジー効果。

 

まさに、映画と音楽の、完璧なる融合。

 

だから私は、「天気の子」のエンドロールまで辿り着いた時、思わず感嘆の溜息とともに「完璧だ・・・」と呟いてしまったのである。