ゼロ・リスクな「竜とそばかすの姫」、

命まで賭ける新海作品

 

①に於いて、「竜そば」では誰もが主人公を〝助け〟ようとしない、「天気の子」では誰もがリスクを負って主人公を〝助け〟ようとしている…と指摘した。

 

これは、当の主人公の在り方にも全く同じ事が言える。

 

「竜そば」ですずが〝竜〟を救う代償として賭けるのは、仮想空間〝U〟における〝アンベイル〟(正体を明かす)である。これは代償としてはいかにも足らないように思える。

 

確かに、匿名性が保障されている仮想空間において、アバターが現実世界において何者なのかは重要な秘密事項である。

もうひとつの人格であるアバターと、現実の人格である本人の別個性が失われれば、場合によってはアバターを失いかねない。

これはプライバシーが暴かれるといったレベルではない。現実の人格とアバターの人格が別個の存在であることが保障されて初めて自由に泳げることができた者に、「お前の正体を知っている」と告げただけでたちまちアバターの人格は萎縮するからである。

 

 

しかし、そうはいっても失うのは所詮、作り物のアバターに過ぎない。

そもそも仮想空間でアバターに自由に振る舞わせること自体、現実の自分が不自由であることの裏返しなのであるから、アバターは不健康、不健全の象徴ともいえる。本来あるべき姿(理想の自分)をアバターに託し、儘ならぬ現実の憂さ晴らしをしているともいえよう。

 

だから、アンベイルされて歌姫〝ベル〟が女子高生すずであると明かされた結果、アバターの存在意義に危機がもたらされたとしても、それは何の脅威にもならない。

 

 

しかも、「冴えない女子高生の私は、実は仮想空間で人気者の歌姫〝ベル〟でした!」とアンベイルされたところで現実世界のすずは何の傷も負わないし、むしろ評判が爆上がりであろう。

まだ、仮想空間のお尋ね者の危険人物〝竜〟がアンベイルされる方が遙かに危険である。

 

いずれにしたってすずが勇気を振り絞って正体を晒したところで、ほとんどゼロリスクである。

 

 

一方、「天気の子」の帆高は、陽菜を助ける代償として命まで賭ける。

 

行政の助けを待たず自力で救出するのが「竜そば」なら、行政のお節介を振り払い・国家を敵に回したのが「天気の子」なのである。

 

児童相談所の職員と警察が来訪し、自らにも警察の手が伸びていることを知った帆高(重ねて言うが、この時児相も警察も帆高らを〝助け〟るために追っているつもりである)が、「一緒に逃げよう!」と叫んで始まった逃避行は、警察・児相から脱走し、危険運転バイクで逃走し、線路を走って、警官に銃口を向け、銃砲を轟かせて着地する。さながら「俺たちに明日はない」「テルマ&ルイーズ」子供バージョンか。老刑事をして「彼は人生を棒に振っちゃってるわけで」と言わしめる所以である。

 

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代々木の廃ビルで、身体を張って警官を殴り倒した須賀、女装のまま警官に体当たりを喰らわした小学生・凪に助けられ、帆高は〝階段を踏み抜いて〟彼岸まで駆け上がる。あの〝野田さん、階段が足りません!〟な非常階段のシーンは、新海信者にとって欠かせない号泣ポイントだ。

(余談だが、私が「天気の子一番くじ」をローソンで大人買い占めした際、バイトの男の子から「僕も見ました。泣きました、階段のシーンで・・・」と言われ、その場でシーンを思い出して涙を溢れさせてしまった、くらい、あのシーンはヤバい。)

 

階段を踏み抜いて彼岸に駆け上がるだけで帆高は現実の命を危険に晒しているし、陽菜を追って〝彼岸〟に行った時点で既にお陀仏である。ファンタジーの世界としても、帆高は命を捨てているのである。

 

 

「竜そば」ファンからは「東京に辿り着いたすずが、偶然家から飛び出してきた〝竜〟ら親子を発見し、DV親父に無言の睨み返しで撃退した事実を見落としている。あれはDV親父に女子高生が1人で立ち向かうハイリスク行為である」との反論が想定される。

 

笑止である。帆高はDV親父より遙かに危険な、殺傷能力ある拳銃を持った警官相手に何度も暴行を喰らわし、自身も警官に銃口を向ける。陽菜も帆高を救う為に警官に体当たりして、これ以上その力を使えば人柱として消えて亡くなる我が身を犠牲にしている。

究極の救済とは、我を忘れて命を捧げる狂気を秘めた行為である。すずと帆高らの行為は、比較にならない。

 

それだけではない。帆高はもうひとつ、大きな代償を払っている。

陽菜を救済するという選択と引き換えに、帆高は世界を決定的に狂わせてしまったのである。

そして帆高は、世界を敵に回してしまったのである。

 

それが、「天気の子」で描かれた物語である。

 

 

 

救済に際してアンベイルされるかされないか程度のリスクを負う「竜そば」と、世界を敵に回し命懸けのリスクを負う「天気の子」のこの大きな差は、②で指摘した「私」の救済か、「君」の救済かの違いに起因する。

 

所詮は自己救済のストーリーにすぎないのであれば、それなりのリスクしか負わないし、

「君」を救済するストーリーであれば、世界を敵に回すことなど厭わず命まで捧げるであろう。

 

 

私にとって「オープニングだけで泣いた映画」は、「君の名は。」ともうひとつ、「TITANIC」の2本のみだ。

「TITANIC」はオープニングのタイトルバックだけで涙した。オープニングは悲劇の幕開けだと最初から分かっているからである。

 

あの映画は言わば、「命の賭け合い」であった。賭けるものは己の命のみ。命の大盤振る舞いである。

ジャックを助ける為にローズは何度も命を賭け、ジャックは最後に身を挺してローズの命を守る。

二人だけではない。タイタニック号の他の乗員すべて、ある者は自分の命を必死に守り、ある者は命を捨てて他の誰かを救おうとする。

 

しばしば学校ではこのように教えられる。「命は、最も貴いものである」、と。

ならば、他の貴き命を〝我が貴き命を捨てて〟救おうとする行為こそが、人間として最上級に貴い行為ではないのか。

 

「竜とそばかすの姫」で最も残念な点は、すずの母親の行為をこのように評価することなく、単なるすずの心の傷として残した点である。

母親が自分の身を犠牲にして、他人の子供を救った。この世で人として最も貴い行いを成し遂げた母親に対し、「何故自分を見捨て、自分の命を捧げてしまったのか」と塞ぎ込むすずの心境は、幼さ故の身勝手に過ぎない。

愛とは自己犠牲である。身を以て愛の姿を我が子に示した母親が、こんな描かれ方では浮かばれないではないか。

 

だが新海作品で描かれる「愛」は、そのような高貴な「愛」ですらないのである。

飽くまでも「君」にもう一度、逢いたいから。

ただそれだけである。

 

思春期に、運命的に出逢ってしまった「君」の為に、彼らはすべてのものを犠牲にする。君のいない世界など、〝笑わないサンタのよう〟なのだから。

 

 

その差はサブキャラにも

 

〝身の挺し方が足らない〟のは主人公だけではない。重要なポジションを占めるサブキャラも同じである。

 

「君の名は。」 三葉に照れるテッシー。

 

新海誠「君の名は。」のヒロイン・三葉の長馴染みの同級生であるテッシーこと勅使河原は工事現場で使用する発破をかけ、発電所を爆破する。これは建造物侵入罪及び激発物破裂罪という重罪にあたる。サヤカに電波ジャックさせて町民に虚偽の避難情報を流したことも、立派な犯罪行為であろう(しかし新海監督ってホント、犯罪行為させるの好きだな・・・)。

 

テッシーの主な動機は彗星衝突から町を救う為ではないし、超常現象好きの趣味に昂じて及んだ訳でもない。密かに想いを寄せていた三葉に頼まれたからである。

だから三葉が「あの人の名前が思い出せないの」と涙した際、三葉が誰かに恋していることに気付いて思わず声を荒らげていたし、計画が親に露見して失敗に終わろうという時、天を仰いで「三葉、ごめん。ここまでや」と三葉に詫びている。

 

テッシーの三葉への仄かな恋心も想いを伝えることもなくここで終わるのである。

 

犯罪行為や!

 

同じくヒロインの幼馴染みの同級生「竜とそばかすの姫」のしのぶくんは、仮想空間〝U〟で見出した〝竜〟を救いたいというすずの為に、「正体を明かすしかない!」と力説して説得する。

そして検索システムを駆使しまくって、〝竜〟の居場所を突き止めて終わりだ。

 

しのぶくん、すずの為に為した事って、言葉と検索だけじゃないか。そこは警視庁の防犯カメラにハッキングしてアクセスするとか、すずに同行して、最低限DV親父からすずを庇って一発殴り倒す程度の暴走は欲しいところである。

 

町中の大人を敵に回し、違法行為どころか犯罪行為にまで手を染めたテッシーとリスクの負い方とは格段の差しかない。

 

「竜とそばかすの姫」のしのぶくん。

 

その差は結局、しのぶくんのすずへの想いと、テッシーの三葉への想いの差に他ならない。

 

尚、次作「天気の子」では、恋心の威力を使うことなく、須賀や夏美、凪らに違法行為をさせまくっていたことは前回述べた通りである。

捨て身で相手を助けること、それだけが我々の心を大きく動かすのである。