ネット空間を肯定的に捉え、現実として置いた「竜とそばかすの姫」、
否定的に捉え、ツールとしての意味しか持たせない新海作品
仮想空間〝U〟において、主人公が抑圧と喪失から開放され本来の自分を回復する姿を描いた「竜そば」。細田守はネットで顕在化する人々の悪意よりは善意に焦点を当て、尚且つSNSを「もうひとつの現実」として位置付けている。
ネットでは、誹謗中傷や、匿名で遠慮のない言葉の刃が飛び交い批判されることも多いですよね?現実世界でははっきり見えない人間関係のヒエラルキーや差別感情が、ネットでは可視化され、見せつけられる。
ネットやSNSで人格が変わったり、現実と振る舞いが違う人もいる。でも、どちらが本当でどちらが嘘かというより、一人の人がやっている以上どちらも本当。
・・・インターネットは本人が思ってもいない別の側面も明らかにする。
〜日経エンタテインメント!8月号 細田守インタビューより
細田守はネットで顕在化する人の悪意に焦点を当てないから、劇中で洪水のように溢れさせる悪意のワードも、心を刺さない。
〝U〟に登場し悪意を剥き出しにする者達は1人残らず、ジャスティス自警団さえも全て「善人」に映る。悪人が登場しないのは細田作品の特徴でもある。
細田作品においてインターネット空間は「もうひとつの現実」であり、SNSのハンドルネームは「もうひとりの自分」であるから、ネット空間と現実空間の境目が曖昧で、且つ往来が激しい。
すずはネット空間で傷ついた現実の自分を癒やし、喪失した本来の自分を取り戻す。〝竜〟らはネット空間で救済を求め、現実の自分も救済される。
一方、「天気の子展」で公開された企画書において、新海誠は〝本来人々に自由と豊かさを与えるツールであるはずのインターネットが、逆に監視と糾弾のツールと化し、人々を窮屈にさせている〟と語っている。
ネットの否定的な面を批判するのではなく、肯定的な面のみに焦点を当てる細田守と真逆である。
結果、「天気の子」で帆高に浴びせられる言葉は誹謗中傷、罵詈雑言ですらない。
やっと届いたヤフー知恵袋の返事は「労基法違反」「タヒね」(死ね)等々、言葉はキツいが現実社会同様「無関心」の域を脱しないワードである。帆高も真に受けて風俗ボーイに応募し、ヤクザに恫喝されようとも、少しもめげないし傷ついてもいない。
とはいえ帆高たちのお天気ビジネスで、晴れを願う人々と繋がれて、陽菜に存在意義を与え、心に明るさを取り戻したのはインターネットのお陰ではある。
しかしここでのネットの役割はアマゾンやネット通販と同レベルである。現実に繋がる為のツールとしてネットが存在するに過ぎないのである。
現実との架橋にすぎないネット空間であるから、「天気の子」では否定的にも肯定的にも捉えられていない。
ネット空間に敢えて何の意味を持たせない新海誠はもしかしたら、「ネットが本来の意味を失って、監視と糾弾のツールになってしまった」現実社会に対する痛烈な批判として、ネットを否定的に捉えるのではなく「無価値」なものとして作中の片隅に転がしたのかもしれない。
確かにSNSなどのネット空間で、抑圧された自分を曝け出すことによって本来の自分を取り戻せる実感が得られるということはあるだろう。しかしそこでの空間における自分はあくまでも「一面」でしかない。
ネット空間で充実している人が、現実も充実しているとは限らない。むしろその逆である傾向が強い。
人間というのは得てして、端から現実が充実しているように見える人ほど、心が満たされていないもの(しかもその事実に自分自身直面できていない)である。
真に満たされている者は自然体であるが故に、リア充の鎧を纏う必要がないからである。
「本当の自分」とはネット空間で探し出したり回復できるような単純なものではなく、最終的には現実に還元されるものであり、それはその人の「心」に集約されなければ意味がない。
無論そのことは「竜そば」でもしっかり描かれているし、それがテーマだったのだと気付かされる。
「竜そば」は仮想空間だとか美女と野獣へのオマージュだとか様々語られるが、結局は単なる「自分探し(自己回復)」のストーリーだったのだ。
仮想空間は「仮想」などではなく、隠された現実。
そうであればすずは〝ベル〟という人格としても現実に存在していて、最後に2つの人格が統一された、というだけの話である。
「わたし」の物語である「竜とそばかすの姫」、
「君と僕」の物語である新海作品
「竜そば」は、すずの仮想空間での出来事を通じた自己回復のストーリーであった。
ならば、現実社会の〝竜(=恵)〟や、幼馴染みのしのぶくんは、一体すずにとっていかなる存在であったのか?
彼らはなんだか、すずの自己回復の手段として都合良く配置されていただけのように見えてならないのである。劇中ではしのぶくんや〝竜〟の目線から語られる物語がないからである。
ここが、新海作品と決定的に異なる点である。
新海作品がデビュー作「ほしのこえ」から一貫して「君と僕」の物語を創り続けてきたことは論を俟たない。
それは新海作品の共通テーマが所謂ボーイ・ミーツ・ガールの物語であり、思春期における唯一無二の存在である異性と出逢うことだけを飽くことなく繰り返し描いてきていることに通じる。
「この場所から出たくて、
あの光に入りたくて、
必死に、走っていた
追いついた と思った途端、
でもそこは行き止まりで
あの光の中に行こう、
僕はあの時そう決めて...
そしてその果てに、君がいたんだ」
「はじめて君を見た日、
まるで迷子の猫みたいで
でも、君が私の意味をみつけてくれて、
誰かを笑顔にできるのが嬉しくて、
私は晴れ女を続けたの
君に逢えてよかった」
〜新海誠「天気の子」
新海作品においては、徹頭徹尾、世界は「君と僕」で構成されている。
「わたし」の世界で綴られる「竜とそばかすの姫」、若しくは「僕ら•私たち」の世界で綴られる「サマーウォーズ」と決定的に視点が異なるのである。
ある挽夏の片割れ時…
あれはまるで「天気の子」のような、かなとこ雲だった