2021年1月3日「天気の子」地上波初放送

 

利他的な生き方をすれば、「自分に関する」苦悩は一切、なくなる。

そんな単純なことに明確に気付いたのはごく最近のことだ。

 

いつからか、利他的な生き方をしたいと願うようになった。

それは単なる願望ではなく、心の在り方を変え、行動変容を伴うものである。私利私欲を極力排し、自分自身の「楽しみ」や「幸せ」や「欲望」をひとつひとつ、捨てていく作業だった。そして常に自身の行動選択に際し、「動機は善なりや、私心なかりしか」と稲盛和夫フィロソフィーよろしく心に問い続けるのだ、「己の正義は本当に正しいのか?」と。

 

自分が良かれと信じて取った行動であったとしても、相手にとって真に正しいかどうか分からない。周囲の人にとっても正しいことなのか分からない。1度出した結論であっても、いつでも修正可能であるように、迷い、悩み、考え続ける。そうして最後は、そこに真に「私心」がないことを確認してようやく決断する。そして確信に至って決断し行動に移した後もなお、考え続けることを止めない。

私はこの、「自己懐疑」こそが人に備わった高度な知的作業であり、「逡巡」こそが人に与えられた真の優しさおよび愛の発露であり、何れも人として最も重要な精神活動であると思っている。

 

私利私欲を排し、利他的な生き方をしている人にとって2020年は、〝自分は〟何も困らななかった1年だった・・・といえるだろう。

「自分のやりたいこと」をやるのではなく、常日頃から努力して「人々が必要とすることを、する」生き方をしているから、世の中が混乱しても、というよりは混乱すればするほどに、その人の力が、言葉が人々から必要とされるのである。人々から求められる人間になろうと常日頃から考えて、精進するからである。

だから人々から必要とされる=マーケットを失うことはないので、仕事がないという状態に陥らない。

しかも自分自身の中で完結する楽しみは元々一切排除されているのだから、それが叶わない世の中になっても、自分はまるで影響を受けない筈である。

 

暴論を承知で言えば、2020年の災厄は、自己の楽しみを人生の中心に据えた、享楽的な人生を送る人に対して致命的なダメージを与えたと言える。享楽的な人生を送る人、ならびに彼らを支え、群がり、依存する生活を送る人に対して。

エンターテイメント、グルメ、旅行。世界で最も深刻なダメージを受けた3つの産業である。何れもそれを生き甲斐としている人及びそれを生業としている人にとっては、いつか世界が元に戻る日が来るのを願いながら「堪え忍ぶ」「我慢する」事態に陥っている。

 

しかし利他的な生き方を選択している人にとっては、我慢する対象もないし、堪え忍ぶこともない。ただ求められる仕事をさせていただくのみである。他人の人生の為に自分の時間を捧げ、思い、考え、知恵を絞って苦悩する。だけど自分は何も困らないし、自分自身は何も変わらない1年だったのではないかと思う。

 

 

 

 

翻って私の1年をみれば、元々自分の楽しみを極力排した日々を送っていたため、特段行動変容を強いられたとは思っていない。ただ、行かない予定だった角松敏生のライブが中止になり、行く予定だった角松敏生のライブが中止になり、オンライン配信ライブを鑑賞し、Billboardライブで生演奏の感動を確認し、年末には規模縮小というだけでほぼ変わらないホールライブに参加しただけのことである。

6月には映画館再開記念として新海誠作品が上映された。誰も知る人がいなかったからなのか、六本木ヒルズシネマにて客席に私一人〝貸し切りで〟「君の名は。」や「天気の子」を堪能できたのは奇跡的だった。

夏には新海監督誕生の聖地・下北沢トリウッドで、朝から晩まで一日中新海誠全作品を上映するという、これまた奇跡的なイベントに参加できた。そう考えると、逆に私にとっては今年は棚ぼたな「お楽しみ」が訪れていたものである。

旅行もしないし帰省もしない。友との遊興や飲食に現を抜かすこともない。行きたい場所もない。楽しみにしているイベントもない。SNSでの承認欲求充足活動やリア充自慢もしていない。やりたいことは既に全部やれている。会いたい人には元々、会えない。

そんな日常であれば、今年はいつも通りの日々が廻っていたにすぎない。

 

4月のある日。テレビでは私の大嫌いなパワーワード〝おうち〟〝ステイホーム〟が脳天気に連呼され続けていた頃である(私は10代の頃、「金曜日の妻たちへⅢ恋に落ちて」でいしだあゆみが気怠く「みんな、おうちに帰るのね…」と呟いて男を見送ったセリフにいたく共感し、以来、〝おうち〟という言葉をトラウマ級に嫌悪するようになる)。

そんな中、私は昼間の渋谷駅にいた。

その瞬間、渋谷駅構内にいた人間は私だけであった。人っこひとりいない駅構内で、電車は動き、天井からは大量の公告が掲げられ、全ての柱に埋め込まれたオーロラビジョンが次々と広告映像を映し出し、機械で通された人の音声と効果音が鳴り続けている。スクランブル交差点の巨大オーロラビジョンも普段通りである。東京2020オリンピックのフラッグショップも。

そこで聞こえるのは電子機械音のみ。私の靴音だけが構内鳴り響く。全ての機能が今まで通り作動しているのに、生体反応がどこにも存在しないのだ。ただ一人、自分を除いては。

まさに世紀末、まるでブレードランナーの世界だ…ゾクゾクするような恐怖にも似た興奮を抱えながら、今、正に歴史が大きく変わろうとしている、この時代この世界に生きていること、この感覚を2度と忘れまいと目を見開いて焼き付け、大きく息を吸い込んだ。あれは多分、3.11後の時と同じ感覚だ。

 

5月、音楽ライブのガイドライン策定中の友人が私に言った。「従来の形でのライブは、永久に不可能ですね」その時、はっきりと世界が〝不可逆的に〟いかに変わったのかと理解した。世界はもう二度と元には戻らない、有識者が連呼しているその意味は、こんな形で訪れるんだと。

だけど考えてみたら、従来のライブ…1つの空間に密集して、プレイヤーとオーディエンスが心身一体となって1つのエンターテイメントを創り上げていくスタイルだって、たかだかここ数十年の話だ。ライブのスタイルなんぞ刻々と変わり、進化し続けている。単に、今すぐに、意に反して、ライブの形の変容を強いられているだけのことである。歌で表現する、メッセージを伝える、それを聴いて楽しむ、心を癒やし、何かを気付かせる。そうした表現活動の形が変わるだけで、本質が変わるわけではない。

夏に角松さんが言った「大丈夫、僕が生きている限り、歌は聴けますから」その言葉に尽きる。

 

8月にはまた一人、大切な友を失った。

彼女は突然、「この未曾有の事態は人々が風邪レベルのウイルスに過剰反応したが故の人災であり、特に発達期にマスクを強いられ貴重な学びの機会を奪う等子供達への被害が甚大であるので、誤った社会を正す為にSNS仲間と立ち上がることにした」と宣言したのである。「それは究極の利己主義であり、カルト思想だ」と私が言えば「子供達の未来の為日本社会を少しでも善くする活動のどこが利己的なのか。傍観しているあなたこそ利己主義であり、サイレントマジョリティーとしての罪を自覚して欲しい。マスク信仰こそカルトだ」などと反論される。

私は兼ねてから彼女が、周囲の人々や日本社会を憎悪していることを知っていたので、それは私怨を動機とするものであり、自分の目に見える通りに都合良く世界を作り替えようとする活動に過ぎないと諭すのみならず、彼女の目を醒まさせようと人格否定までしてしまった。そして彼女は黙って去った。

熟考に熟考を重ね、他の友からの意見も聞き、「動機は善なりや、私心なかりしか」を自らに問い続けて〝彼女の為に良かれと信じて〟為したことであったが、結論から言えば私が間違っていたことになる。自分の言葉がいかに正しくとも、正論を突きつけることが正しい行為とは限らないのだ。

学校に対するウイルス対策を、「従来の日常を奪われ、発達過程における貴重な経験を奪われた」ととらえるのか、それとも「自己犠牲という人間としての最も尊い精神を具現し、限られた条件の中で学習と楽しみを新たに創出する機会」ととらえるのか、捉え方次第である。いずれにしても後述するように、彼女が属するSNS集団が「人権侵害」「差別」「経済破綻」と騒いだところで、彼らの苦悩なんぞたかが知れている。

 

3月下旬、社会がウイルスの脅威に否応なしに揺さぶられ、1つの方向に向かい始めた頃、ある中学生の自殺が報じられた。いじめを苦にした自殺。もう少し待てば学校は閉鎖になるから学校に行く必要もなくなる。もう少し待てば自分だけじゃない、あらゆる人々の人生が暗転することは間違いないのに、何故彼は、それを待たず、自らの儚き人生の幕を降ろしてしまったのか。彼にとっては、こんな社会の恐慌とは無関係の地獄があったのだ。

現状を地獄としか思えない人が取る究極の行動は2方向である。自己否定と他者否定。自己否定すれば死ぬしかない。そうあって欲しくないので、最終的には友が社会糾弾活動を始めることを容認することにした。しかし本当は、生き辛さから抜け出す第3の道を選択して欲しかった。「利己的な自分の目を利他的な目に入れ替えること」これだけでほとんど全ては解決するのである。

もっともウイルスを理由に、社会を嘆き、人々を責め、政策を批判する人というのは、実はまだそれだけ騒げる余裕があるのだと思う。本当の弱者は既に精神的に社会から切り捨てられているから、社会がどう変わろうと無関係に、地獄の日々に生きているのだと思う。真の弱者はメディアやネットの声など届かないし、そもそも見えないし聞こえない。だから私のこんな戯言も暴論も目にすることは、絶対にない。

 

クリスマスイブの昼。都内感染者数は過去最高値を更新中と、医療従事者が悲鳴のような記者会見をする。テレビでは国のトップがステーキ会食と呆れ、そのトップは行動自粛の旗を振る。南青山のカフェテリアでは、赤ちゃん連れの女性集団がマスクを外して食事と会話を楽しんでいる。店の目の前にはセレブな地元住民の建設反対運動で一躍有名になった児童相談所、急ピッチで工事が進められ、完成間近だ。

みんな見事にバラバラだ。みんな自分のことだけ、みんな他人事。何だこのカオスな社会は、〝もともと狂ってる〟じゃないか。世界が狂うずっと前から、どうせもともとみんな、狂っていたんだ。

しかし私はこんな日本社会はそう悪くはないと感じている。かの国を見よ、最悪な社会とは、みんなが一方向へ一致団結し、正義と称する為政者が決めた正しい在り方を実現しようとする社会のことである。日本社会は実は意外と、多様性を許容する社会なのである。

 

けれどもこんな、利己主義者で構成される社会は、余りに冷たすぎる。他人のことはどうでもいい、自分が脅威に感じていることだけが重大な関心事。自分の価値観に他人を合わせようとする。挙げ句、「公」の為に尽力する為政者が放つ言葉が〝おうち〟〝家族でステイホーム〟〝大切な人の命を守る為に〟である。こんなペラペラな言葉を耳にする度、〝おうち〟がない人、大切な人がいない人、そもそも人から大切にされたことがない人はどう感じているのだろうといつも思う。

それでも一握り、利他的に生きようとする者が確かにいることを、私は知っている。そんな人がいる限り、この世界は悪くはないはずだ。

 

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利他的に生きるのだと心に決めてから、私利私欲を極力排し、自分自身の「楽しみ」や「幸せ」や「欲望」をひとつひとつ、捨てていった。そして常に自身の行動選択に際し、「動機は善なりや、私心なかりしか」と心に問い続けるのだ。そうすれば、自分自身のことで苦悩することは有り得なくなる。

 

そうして最後にたった1つ、どうしても捨てきれない欲望だけが残る。

 

2020年、まるで「天気の子」のような世界が訪れて、世界の形がどんなに変わっても、私は少しも変わらなかった。

 

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