この社会が、嫌いだと思った。


「ノーヘルでバイクを走らせていた高校卒業したての少年が、パトカーの追跡に遭い、事故で脳障害11年寝たきりに」このニュースに対する少年とその家族への罵詈雑言のコメント欄と、それに対する数千件の「いいね」を見て、暗澹の二文字しか浮かばなかった。

「ヘルメット未着用」というただそれだけの過失(と評価されている事実)で、彼をそこまで非難できるのか。そのことに「ここまでの償いが必要なのか」と悲痛な声をあげただけの家族に、自業自得と突き放すのみならず、盗っ人猛々しいとまで言い放つ人間で溢れている、

そんな社会が。

 


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新海誠「天気の子展」は、3つの主要シーンがエンドレスで流れるという、ファンにとっては大サービスな饗応接待で迎えられる。

帆高が2度目に銃を撃つシーンからの(見所は、銃口を須賀から4名の刑事次々とターゲットを移していき結局最後に須賀に向けた瞬間の「え、俺!?」と刮目する須賀の顔と、突撃する凪が安井刑事の貴重な髪をリアルにむしり取る髪の量)、「野田さん、階段が足りません!」と急遽曲に合わせて増設した、あの非常階段を駆け上がるシーンで、まずは涙腺決壊。


続くグランドエスケープのシーンは、心置きなく号泣できるよう、カーテンで仕切った暗い小部屋で思う存分どうぞ、で、ツボを抑えきっている。

 

醍醐虎汰朗の声による「天気なんて、狂ったままでいいんだ」を聞く度、胸の奥の奥の奥底、否、「腹の底から」何かを引きずり出されようとする感覚を、体感する。

その「何か」の正体を知りたくて、グランドエスケープ部屋に60分佇んでみた。

何度でも喉元まで引きずり出されそうになっては、理性がそれを押しとどめてしまう。

 

そんな感覚は、半世紀生きてきて初めてだ。
 

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「天気の子」展の最大の見所は2017年2月28日付の企画書「天気予報の君」(仮)である。自身の作品を「声高に」主張することを好まない監督が、珍しくこの企画書では比較的ストレートに主張している。
そして初期プロットから既に、帆高が「天気なんて、狂ったままでいいんだ」と叫ぶシーンをクライマックスに持ってくることを決めていたことが分かる。この台詞を言わせる為に「天気の子」は作られたと言ってもいい。全てはこの言葉に収斂される。

企画書には新海監督の思いを象徴する重要な視点が2つ示されている。

 

1つは、天気という人の心に直接影響を与える「自然現象」が、生活そのものまでも変えてしまうほど、どこか不可逆的に狂ってきていること。

自然環境破壊に抵抗する動きがある一方で、「地球温暖化などない」と主張するトランプが国民の支持を得て大統領になったこと。トランプ大統領誕生の一報は、新海監督の心を大きく動かした、とある。

「天気の子」展開催時に、国連でグレタという環境活動家が大人達を非難する姿が大きく報道されていた。あれもまた、「正しいとされる姿、あるべき姿を取り戻そうとする姿」の1つである。

しかし新海監督は、自然環境が元の秩序を取り戻すことなどないとみんな薄々分かっているし、そもそもその「正しさ」は真に正しいのかと問い、剰え狂っているのではないかとまでの問いを突きつけようというのである。


もう1つの視点は、本来、自由と豊かさを享受するツールであった筈のインターネットやSNSが、監視と糾弾のツールと化し、逆に人を窮屈にさせていることである。

閉塞したこの社会を打破すべく、新海監督は1つの選択を示す。


数多のアニメは正義や調和を取り戻す結末に向かっている。

しかし、新海監督は誰からも正しいとされる状態・調和が取れた状態を目指す結末を否定する。それがたとえ他人の正しさを破壊するものであったとしても、「自分にとっての正しさ」を選択し、共に乗り越えるという結末を示す、そんな物語を創るのだと、挑戦的に宣言していたのである。






かつて、ある読者から議論を吹っ掛けられたことがある。


その人は、ある特定の行為…それは「いじめ」でも「泥棒」でも「殺人」でも同じロジックになるので何でもいいのだが、取り敢えずその人が拘っていた「不倫」という行為にしておく…を、「絶対悪」だと言えることを証明しようとした。
私は、いかなる行為であっても、絶対的に正しいことにはならず、全て正義とは相対的な概念であるから、一般的絶対的に「悪」であると断定できる行為もまた存在しない、と答えた。


「正義」とは自らに突きつけるものであり、ひとたび他者に向けられれば、それは狂った凶器にしかならない。

それが私の辿り着いた真理である。

このように定義付けた時点で議論の余地などなくなるのだが、その人は自身を正当化するために、「法」を持ち出し、次に「倫理規範」を用いた。何れも人間が作り出した知恵と技術の産物であるから、時代と場所が異なれば真逆の結論にもなる。

ある時代ある場所で違法とされたことが、違う時代違う地では適法となる。おおらかで緩い規範が徐々に厳しくなったり、ある日美徳とされた倫理意識が急に失われたりする。

 

それが社会というものである。


すると次に「ルールを決めたら守らないと社会が破綻する」と、社会秩序を持ち出した。

だが前提となるルールが絶対的価値を備えない為、これも理由にならない。


全ての論拠を潰され、遂にその人は「個人の感情」を理由にした。「私が傷ついたから、悪いのだ」と。

語るに落ちたのである。正当化理由になりうるのは一般化された「社会」ではなく、「個」の、「わたし」の、極私的でプリミティブな感情である。よって結局、人間の行為を一般的絶対的に正当化することも、善悪という評価によって絶対化することも、不可能なのである。

これらは既に古今東西、哲学者を中心として議論され尽くされている。法哲学の講義を聞き齧れば一瞬にしてここまでの議論は終わる。

 

だが現実はその人のように、若しくは冒頭のネット糾弾集団のように、個人の正義を社会正義にすり替え、それが絶対に正しいと信じて疑わず、正義という名の剣を振り回す人がマジョリティだと思う。野田洋次郎の曲の通り〝賢い者たちと諦めた者たちが勝者の時代〟である。

 

正当化根拠は大概、幼い頃から親や学校や本から教わってきた「○○してはいけません」「○○とあるべき」といった禁止論、べき論、社会倫理規範論であろう。

だけど、そんな人ばかりのこの社会、どこか息苦しくならないだろうか?
 

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「天気の子」の帆高も規範遵守意識の高い少年である。「いやダメだろ人として!」と自身を責め、「愛人って初めて見た」と顔を赤らめ、「未成年ですってば!」と渡されたビールをCCレモンに持ち替える。
一方で帆高は、家出する・拾った拳銃を2度もぶっ放す・警察署から逃走する・ママチャリを盗もうとする・夏美のスーパーカブで暴走させる・線路に進入するといった反社会的行為を次々犯す。

 

帆高の行為規範はすべて「~したい」「~したくない」である。「でも、帰りたくないんだ、絶対」「あの光の先に行きたくて、必死に手を伸ばして」「もう一度、会いたいんだ」「行かせてくれよ!」その目的の為なら、社会規範など軽々乗り越えるのである。


そんな帆高であっても、「青空よりも、陽菜がいい」「天気なんて、狂ったままでいいんだ」と、さすがに全体を犠牲にして個を選択し、世界を狂わせたことへの葛藤は、ある。帆高にとっての正義が、必ずしも他の者にとっての正義ではないことをどこかで知っているからだろう。

 

圧倒的多数の声となって形成される「社会」とは、絶対的な正しさの集合体である。正しいと信じて疑わない者、気付いていても気付かないフリをして歯車と化す者、正しいとされた歯車を動かす為政者。
「なんか、息苦しくて」という帆高は、そんな社会の正しさに乗れないマイノリティの代弁者である。




新海監督は、主人公に「狂ったままでいいんだ」と叫ばせ、東京を水没させた結末に対してもっと批判が来ると思っていたようだ。しかし恐らく、1000万人超の動員数の大半がリピーターであり熱狂的な新海信者である。彼らの声援によって、「あの結末どうなの」と呟く声は完璧にかき消されている。


そうすると、帆高のようにこの社会に対しどうしようもない息苦しさを感じている者が意外と多いということになる。我々は案外マイノリティなどではないかもしれない。ただ、「狂ったままでいいんだ」と声を上げられないだけで。
 

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この作品は凄く

ファンタジーを描いていてもいるんですけど、

きっと僕らのすぐ近くにある世界を描いてもいて、

きっと大変なこと、困難なこと

やってられないことが、

多分これからも僕ら全員に

色んな形で降り注ぐとも思うんですけども

帆高と陽菜は、ああいう決断をして、

こういう二人がどっかにいるんだな

ということが、自分の心の支えにもなったりします。

誰かの正解が、世の中の意見とかが、

物凄く正しいとされて、

そういう波に乗っからなきゃいけない

世界かもしれないですけど、

帆高と陽菜のように、自分だけの正解を

自分だけの正しさみたいなものを

見つけていけたら

もっともっと幸せになるんじゃないかなと

僕はこの映画を見て思ったので
皆さんにとっても

そういった作品であったら

凄く幸せに思います。


 ~野田洋次郎 11/17「天気の子」舞台挨拶にて



 

天気の子という映画がなかった世界と

天気の子という映画があった世界と
どっちか選べと言われたら
あった世界の方が、
もしかしたら

少しだけいい世界なんじゃないかと

思える作品を作りたかったし、

これからも創りたいと思っています


~新海誠 11/17「天気の子」舞台挨拶にて

 

「天気の子」があった世界に生まれて良かったと心から思う。
 
いつかこんな社会を離れ、あの世界へグランドエスケープするその日まで、力強く生きていけると思う。

 

 


この世界を、好きだと思った。

 

 

 

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