昔は割と好きな言葉だったのに、最近は物凄く胡散臭い言葉だ、と評価が180度変わってしまった言葉が二つあります。
「愛」と「正義」です。
後者は随分前からその言葉に秘められた欺瞞に気付いていました。僅かでも異民族、異文化社会のルールに触れたことのある人であれば、「正義」とは相対的な概念に過ぎないことに既にお気づきでしょう。しかも同民族、同国、そして同社会に生きる者であったとしても、やはり「正義」は相対的な概念であり、絶対的な概念ではないのです。
「正義」という言葉の持つ恐ろしさには数年前に明白に気付きました。
感覚ピエロというバンドの曲〝拝啓、いつかの君へ〟のレビューを書きながら、「正義とは、自らに突きつけるものであって、他者に突きつければそれは狂った凶器に過ぎない」などという格好つけたフレーズが頭に浮かんだので、ビシッと書き残したつもりでいては内心悦に入ったものです(あぁ恥ずかしい)。
私は幼い頃から天の邪鬼で、「マジョリティの逆側に付く」癖がありました。私の事を良く知る友人は「正義感が強い」「弱者の味方になる」等と誤った評価をしてくれるのですが、それは全くの誤解で、「その時点で叩かれている側、弱い側(と自分が思う側)にとりあえず付いてバランスを取っておこう」という感覚だけなのです。ですから正義を声高に叫ぶことがいかに滑稽で、高く掲げることがいかに恐ろしいことかと、容易く気付く事が出来たのだと思います。
一方、「愛」という言葉に秘められた胡散臭さに気付いたのは、遅まきながら昨年秋、「新海誠展」における「言の葉の庭プレスリリース」を読んだ時です。
「古来、日本には愛も恋愛もなく、ただ恋だけがあった」
そこから新海誠の持論である「恋とは、ただ相手を孤独に請うことであり、万葉の時代に孤悲と表記された通りである」という「恋論」が展開されるのですが、それを読んでから恋と愛について改めて考えてみましたら、「愛」も「正義」と同様、相対的な概念に過ぎないこと、及び危険な凶器になりうることに気付いたのでした。
最近、私のその言葉と全く同じことを、脳科学的に理論づけてくれた本を見つけました。近年売れに売れまくっている脳科学者・中野信子による「シャーデンフロイデ」です。
シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感 (幻冬舎新書)
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この本の結びにて、中野信子は「愛と正義が国を滅ぼす」と大胆にも言い切っています。要は私が指摘したように、正義や愛といった一見絶対的な価値観を大義名分化することで、人は最終的には殺戮し合うのだということです。そして、世の中の「いじめ」や「不倫断罪」から「民族間紛争」に至るまで全て、この他者を引きずり下ろすことに対する快感ホルモンに依るものだというのです。かかる快楽に、「愛」や「正義」といった正当化概念が結びつくことで、恐るべきパワーを持って他者を傷つけるのだと。
「愛に最も近い感情レベルは、憎しみだと思う」
これは私がかつて「愛」という概念を言語化しようと延々考えていた頃に残した過去記事、野島伸司「世紀末の詩」の山崎努演じるところの百瀬教授の名言です。この名言を全く理解できないという人は、それまで一度も心の深淵を覗く機会のなかった、平易でお幸せな人生を送って来られた人なのでしょう。人類の巨匠たちが遺していった愛の物語、愛のメロディーは、悲劇に限定すれば常に憎悪と隣り合わせだということを知らずに済む人生。
つまり、奇しくも私が過去記事で結論づけたように、愛とは本来、その人によって形も色も大きさも違う、様々な形がありえる「相対的なもの」なのです。にもかかわらず、愛は絶対的なものだという大いなる誤解があります。その誤解によって、自ら設定した愛の概念に自縛され、本来相対的な概念であった筈の「愛」は自分の中では絶対的なものになります。結果、相手にも同じ「愛」を要求するようになります。それが共有できないとなると、「愛」という名の正義で周囲を断罪するようになります。義務や権利、責任などといった、本来「愛」の持つ意味とおよそかけ離れた概念によって武装されるようになります。それが「愛」の恐ろしさです。
いつから愛は、こんなに手垢にまみれた言葉になってしまったのでしょうか。
一方で、昔は自分の中でステータスの低い言葉だったのに、今や「何と美しい純粋な言葉なのだろうか」とうっとりするほど俄然評価が急浮上した言葉が「恋」です。
「恋は盲目」「老いらくの恋」といった言葉に使われるように、恋とは愚かでどうしようもない行為の代表格の如き扱いです。世に飽きるほど「ただ恋をするだけの映画」が量産されているのに、それが青春映画であれば「キラキラして泣ける」という評価を受けるのに、ひとたび結婚すれば、あるいは分別がつくとされる大人以降の年代がすれば、それはひたすら愚かで薄汚い行為に堕とされます。
なぜそのようなことが起きるのかという仕組みは、中野信子の前掲シャーデンフロイデを読めば分かります。大人以降の恋に不寛容な心理は、全て防衛反応です。脅威を感じることにより排除し、羨望し、嫉妬する心理。そう、本当はそれは単なる嫉妬にすぎないのです。
他人の「恋」を、自分の「正義」で攻撃するのが「愛」です。愛が特定の思想に定義づけられ、他者に向けられた瞬間それは凶器になり得ます。排除反応や嫉妬という本能的感情に、義務や権利や責任や規範等々、正当化根拠となる概念を紐付け、更に概念化したものを「愛」と呼ぶといった事態も生じます。
しかし「恋」は、絶対にこうした現象は生じない。
なぜなら恋もまた、本能だからです。「お腹がすいた」「眠い」のと同じ本能的な状態であり、特定の概念と結びつくこともなければ、人によって恋の形が違うという事も生じ得ないのです。差が生じるといっても、「何が好きで、どのくらい好きで、どのくらい食べたら満足するのか」という食欲に置き換え可能な個人差に過ぎず、ステージが違うという程の大差は生じません。
恋は、愛や正義と並列に語れないものです。愛や正義は相対的で特定の概念と結びつくものである一方で、恋は絶対的な「状態」に過ぎない。
つまり恋こそが、愛よりもずっとずっと神聖で、ピュアな状態なのだと。
いやいや、愚かで盲目的な恋によって、戦争が起きているではないかと思われるかもしれません。しかしそれは最早人間にとっての「恋」ではありません。人間にとっての恋とは、孤独に相手を請うるだけの状態。相手に義務を求め権利を主張し責任を課するようになれば、それは最早「恋」を超え、「愛」若しくは恋愛等の「他の何か」に変容しているはずです。憎しみの隣にあるのは恋ではなく、愛なのです。
本来「愛」もある種の状態であったはずです。しかし人は進化の過程でそこに「個々の」意味を付与し、特定の価値観に紐付け、ついには行為規範としての「愛」に変容させてしまった。このあたりから既に「愛」からは純粋さが失われ、剰え愛を語る時に一抹の胡散臭ささえ感じるようになったのだと思います。
前置きが長くなりました。
これはその「恋」の物語です。恋がいかなかる価値観とも結合しない、単純な状態に過ぎないという事が、オムニバス形式で描かれたこの三者三様の恋のストーリーによって実感できると思います。
ある友人に、恋と愛の違いについて問うたところ、「そこに性欲が介在するかどうか」と即答されました。例として「汝の敵を愛せよ、とは言うけど、汝の敵を恋せよ、とは言わないでしょ」と。また「自分の子どもを愛する」とは言うけど、「自分の子どもに恋」したら変態でしょ」とも。なるほど確かに。
そうした意味では、「秒速5センチメートル」をはじめとする新海誠作品における「恋」は、性の香りが希薄です。希薄と言うより後述するようにほぼほぼゼロだと思います。恋愛の達人から見れば「どこが恋の物語なんだ!」と憤慨するほどレベルが幼稚です(主人公のタカキときたら、妄想の中に生き、“エア”メールを打っては削除するだけで何もしないんですから)。
上述した「恋」の定義に、微妙に「人間にとっての」という留保を付けたことには意味があります。殺戮を生むのは恋ではなく愛である、と断じた時、更に「いやいや、動物は恋を巡って壮絶に殺し合っているではないか」「カマキリはどうなんだ」と反論されることを想定しました。それは「恋」ではなく、「生殖」を巡る本能、つまり「性」です。そして人間のする「恋」は、生殖と直結する「性」の手前にあるものだと思います。
ですから新海誠の描く恋は、本能から遠く、性的には未熟で頭脳だけが発達しているような人に、ピタリとハマるような気がします。私が「秒速5センチメートル」の描く恋に物足りなさを感じないのも、自分がオタク気質だからなのでしょう。
更に言えば、少なくとも「秒速5センチメートル」で描かれる恋の本質は、「性」ではなく、「孤」であると思います。それは最早「恋」とは言えないかもしれませんが.。
アカリと雪降る岩舟駅で再会後、桜の木の下で、「ねぇ、まるで、雪みたいじゃない?」と小学生の時と同じ言葉を発したアカリに、タカキは「そうだね」と言い、二人はキスをします。その瞬間のタカキのモノローグこそ、「秒速5センチメートル」で描かれる恋の本質を突いています。
その瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった、気がした
13年間生きてきたことのすべてを分かち合えたように僕は思い、
それから、次の瞬間、堪らなく悲しくなった
アカリのそのぬくもりを、その魂を、どのように扱えばいいのか、どこへ持って行けばいいのか、それが僕には分からなかったからだ
僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきりと分かった
恋しいアカリとようやく逢え、心が通じ合えてからのキスだというのに、本来ならば歓喜や高揚の中での「スタート」だというのに、どうしたことでしょうか。ここには深い深い悲しみしかないのです。「終焉へのスタート」としか思えないのです。というよりこの瞬間でエンドロールが出てもおかしくないレベルです。ジ・エンドです。
これはタカキが求めていたものが、本能的な性衝動から来るものではなく、言わば、「魂に触れること」だったからであると、私は解釈しています。それがキスである必然性はありません。抱きしめることであってもいいし、手を触れることであってもいいし、「相手の魂に触れる」行為であれば形は様々であるはずです。たまたまタカキにとって、アカリの唇に触れる所作であったにすぎない。それはむしろ本能の対極にある、人間ならではの自我に根ざしていると言えるかもしれません。
そして、相手の魂に触れてしまった時、そこにあるのは歓びではなく、深い絶望です。なぜなら「孤」の持つ魂同士は決して、一つの魂にはなれないことを運命付けられているからです。しかも、決して一つになれないと分かっていても、それでも相手を求めてしまうのが恋ですから、生きている限り絶望が続くようなものなのです。
更にタカキは始末に負えない状態に陥ります。タカキはアカリに、逢えなかった間に「話したいことがたくさんあった」、それを綴った手紙を紛失しているのですが、手紙を出し直さないだけではなく、この後アカリに対する直接的なアプローチの全てを止めています。
あのキスの前と後では、世界の何もかもが変わってしまったような気がしたからだ
・・・という理由からなのですが、その後タカキは、アカリと出逢ってからこのキス「まで」の間をひとまとめとして、その後この閉じた無限空間をループする彷徨人となってしまうのです。
「秒速5センチメートル」で描かれる「恋」が、普通の人には理解し難い点。もうひとつ象徴されている言葉があります。恋する彼らが相手に切実に望む言葉として、苦しげに呟く言葉に。
まずはアカリに会うため栃木に向かう電車が、大雪のために立ち往生し、到着が深夜になりそうだという時のタカキの台詞。
アカリ・・・どうか、もう、家に、帰っていてくれればいいのに
「必ず行くから、待っていてくれ・・・」ではないのです。自分の恋が成就することを願う言葉ではなく、むしろその真逆です。これは一体どういうことでしょうか。
もうひとつ、これはタカキに絶賛片想い中のカナエが、今日こそは告白すると意気込んだものの、タカキの瞳の奥に潜む拒絶の色を感じ、泣きながら心でタカキにお願いする言葉です。
お願いだから、もう、優しくしないで
これもまた、恋の成就を願う言葉ではありません。自分の恋心を続けさせないでほしい、という願いです。自分の恋が成就しないことを心のどこかで感じているからだとしても、あんまりではありませんか。
「秒速5センチメートル」では誰もが、自分の恋を発展させようとしていません。閉じた空間の中で永遠に彷徨うことを決めたタカキ。無限の空間から脱出を試みては、結局断念したカナエ。自分の恋を発展させようと、1000回メールしては「心は1センチしかしか近づけなかった」、タカキの恋人のリサ。そして、タカキの存在を記憶の奥深くに沈め、〝普通の恋〟に生きるアカリ。
それは、ここでの「恋」が、魂に触れることを求める恋であるが故の帰結です。その恋の成就は終わりを意味します。新海誠作品における「恋」は、あくまでも、「孤独に、相手の魂を、請うる」状態であるからです。ただ相手の魂に触れたい一心で、ひたすらに、闇雲に手を伸ばし、もがき彷徨う、どうしようもない状態。
たとえ一瞬だけでも、その魂に触れることのできたタカキは幸せだったのでしょうか。たとえそれが、決して叶わないことを識ることだとしても。
「自分は好きになった子には絶対に告白しない。自分が好きだということも相手に絶対に気付かせない。だから自分の恋は一生、絶対に叶わない」かつて私にそう告白した男性がいました。私は驚いて、「でも、相手も自分を好きかもしれないじゃない?そう思わないの?」すると「絶対に思いません。だって、自分がそうだから(好きな子には絶対に気付かせないから)」と言い切るのです。
彼はそう言って間もなく、当時付き合っていた女の子と結婚しました。
当時の私にはこの男性心理は理解不能でしたが、遙か昔にこれと全く同じことを、私に言った男性がいたのを思い出しました。
世の中にはこういった、実に新海誠的な、面倒くさい男子が結構いるのものです。そんな男子に恋してしまったら、その女子もまた新海誠状態に陥らざるを得ませんね。カナエのように。
そして私が今、恋というものを定義づけるとしたらやはり、本能とは対極にありながら本能に最も近い部分・・・即ち〝永遠とか心とか魂とかいうもの〟を求めてやまない状態、ということになると思うのです。
相手の魂に触れた〝刹那〟を心の奥で何千回、何万回もリフレインすることで、それは刹那から〝永遠〟になるのだということ。
それを一度識ってしまえば、その後の人生は余生みたいなものだということ。
どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。
その答えは・・・どれほどの速さで生きてももう二度と逢えないし、いつでもどこでもいつだって生きている限りそばにいる。
タカキの魂の彷徨が、あの踏切でのすれ違いを経た後、どのような形になるのかは分かりません。
しかしひとたびあの刹那を永遠に変えてしまった以上、死ぬまであの時を心で繰り返すような気がします。まるで永遠に奏で続けられる輪舞曲に乗せるように。