ドラマ「昼顔」がオンエアされていた3年ほど前のことである。
何気なく発した私の次の言葉を聞いた友人から、それはどういう意味かと真剣に問い正されて困ったことがある。

私は、不倫を悪い事だと思った事はないんだけど

実際、考えたことがなかった。そして絶句した。思った事が「ない」理由を説明するのは不可能に近いからである。

説明を試みようとして振り返り、苦笑した。どういうわけか私は昔から、所謂世間でいうところの不倫という状況下にある男女のラブストーリーものに惹かれてやまないのだ。文学、映画、ドラマ、音楽に至るまで、ありとあらゆる不倫物を押さえている。私の憧れ女優・篠ひろ子主演のドラマ「金曜日の妻たちへ3」に始まり、我が青春の田村正和様主演「ニューヨーク恋物語2」は何れも鎌田敏夫の脚本。セリフを暗記するほど繰り返し心に刷り込んだ。金妻3のサブタイトルは「恋におちて」である。そのモチーフとなったロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープの映画「恋におちて」も、金妻と共に一世を風靡した。私自身も、余りにこの映画が好きすぎて、友達の私へのニューヨーク土産は、2人が初めて出逢うNYの老舗書店“RIZZOLI(リゾーリ)”の紙袋だったほど。
 


 
映画「恋におちて」は今にして思えば所謂W不倫である。ところが当時はあの映画は歴とした「純愛もの」としてまかり通っていた。映画の二人は一応寸前スレスレで男女の仲にはなっていないので、現代の共通認識であるところの不倫の定義に従えば、ギリギリ不倫とはいえない。実際、あの映画の二人を非難する風潮などなかったし、むしろ「大人の純愛」として純粋・素直に感情移入し、憧憬した人が多かったと思う。私は当時まだ子供の部類だったので、これぞまさしく大人の恋愛とばかりに強く激しく憧れた。
 
各々家庭のある男女が出逢い、戸惑いながらも惹かれ合い、正しく「恋におちる」。しかしどうしても一線を越える事が出来ない。恋に浮かれたりふさぎ込んだりと、明らかに様子がおかしくなった男に、妻はただならぬものを感じ、努めてさりげなく問い正す。すると罪悪感に耐えかねた男が告白するのだ。
 
「ある女性と、出逢った。・・・でも、何もなかった。何もなく、終わった」
 
物語で一番有名なシーン、最も知られたセリフが来るのは次である。唖然とした妻は、「何もなかった・・・?その方がもっと悪いわ」と言って、夫の頬を一発ピシッと平手打ちして立ち去る。そして妻は子供を連れ実家に帰る。

名場面と噂のこのシーンを最初に見た瞬間、私は痺れた。妻や、このセリフに痺れたのではない。このシチュエーションそのものが、自分にはよく分からない未体験の、男女の機微とやらに溢れた大人の世界に映ったのである。
これは、「2人の間に何もなかったんだから許されると思ったら大間違いよ。身体ではなく、心を奪われた罪の方がもっと悪いわ。」という意味だという。多くの著名人(それも女性)がこの映画を語る時、必ずと言って良いほどこのシーンを引き合いに出して「この奥さんの気持ちがよく分かる」等と知った口をきいていたものだ。
当時の私は、分かるような、分からないような・・・。言わせてみたいような、言ってみたいような。恋に翻弄されるメリル・ストリープとデ・ニーロの気持ちにはなれても、まだ私には、夫に恋人ができる妻の心境を完璧に理解できたとは思えなかった。ただこの心境を真に理解した時に、自分は本当の「成熟した大人の女」になれるような気がした。だから、自分はいつか実生活でも、このセリフを言ってみたいと憧れた。但しその時私は男を平手打ちにするのではなく、赦して相手の女に差し出すのよ、、、なぁんて夢見ていたものだ(幸か不幸か、その機会は未だ訪れていない)。
 

 

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この映画を私に語らせたら止まらないので、今回はここまで。

 

 

それから30年間、所謂不倫物をウォッチし続けてきた私である。2014年に大ブレイクしたドラマ「昼顔」の登場には感慨深いものがあった。これまでの不倫を舞台にしたドラマを俯瞰した記事を連載してみるかと、調子に乗って手始めにアップした記事がこちら
 
あれから2年半、まさかの続編・映画「昼顔」。そしてまさかの2年半越しの続編記事である。

2年半前は「金妻」から始まり「NY恋物語」「誘惑」などの「ありえない大人のファンタジー不倫」から、「出逢った頃の君でいて」「スゥイート・シーズン」等OLと上司の「身近なありがち等身大不倫」を経て、既婚妻の恋愛が徹底受け身の「ミセス・シンデレラ」があり、それが今や自分から能動的に飛び込む「昼顔」妻ですか!驚きますねぇ時代は移ろうものですねぇと、そんな記事を書こうと思って、果てしなく時間が掛かりそうな気がして、すっかり頓挫していた。なぁんだ、たった5行3分で書けたじゃないか。

その後訪れたのはご存じの通り、不倫の2文字に対するマスメディアを主導とする世間の猛烈な逆風である。
 
私は心からこの風潮に眉を顰めた。猫も杓子も不倫を糾弾する声にうんざりした。
不倫物ウォッチャー歴30年(そんなものあるのかどうか分からないが)の私に言わせれば、そもそも不倫という言葉の使い方が間違っている。不倫という言葉は、財力のある男には妾がいるのが当然・女性が不貞を働けば刑法上の姦通罪、という戦前日本における価値観から、制度的に男女同権の理念を導入し、その呼び名も「妾」から「愛人」へ、更に女性の社会進出と共に登場するに至った、既婚男性と独身女性の「恋愛」という新しい恋愛の形としての「不倫」へと変遷したものである。そこには、ただ囲われているだけの「愛人」ではなく、また男性特有の性として考えられてきた「浮気」とは異なる、本気の恋愛として「女性の側から」使われるようになったというプライドがある。単なる浮気じゃないのよ、本気の恋愛なのよ。ただ相手に家庭があるだけ・・・相手の男性にとって自分は「浮気」ではない、結婚は出来ないだけで本当に愛し愛されているのは自分であるという幻想に近いが、女性側の確固たるプライドの象徴、それが「不倫」という言葉だったのだ。
それが80年代後半~90年代における「不倫」という言葉の正しい使われ方だ。
 
だから今のように、単なる浮気とごちゃ混ぜになる事もなければ、人々が軽々しく口にする言葉でもなかった(件の国会議員によるゲス不倫は不倫じゃなく単なる浮気だ。「人間としての欲が勝ってしまった」などという言葉で片付けられる種類の行為であること自体がゲスである)。背徳感と自尊心という二律背反的な要素を持つ言葉、不倫。ひっそりと女性達の胸に秘められた言葉に過ぎない。
そして当然、「世間」という当事者でも何でもない第三者が公然と非難するようなものでもなかった筈である。「好きになった人に、たまたま奥さんがいただけ」樋口可南子という女優が報道陣を前に言い放った言葉に、一部の女性が快哉こそすれ総バッシングすることなどなかった時代である。90年代流行語も生んだ「ずっとあなたが好きだった」というドラマ、あれは女には夫がいて、友情の名を借りて高校の同級生と逢瀬を重ねる。だが誰一人としてあのドラマに「不倫じゃないか!」というツッコミを入れない時代だったのだ(もっとも、あれも不倫の定義規定から言えばギリギリ不倫とは言えないが)。
 
しかし、時代は変われど、「不倫物」が密かに支持されるという現象は今も昔も変わらない。これはなぜか。
一方では不純物の代名詞のように忌み嫌われつつタブー視されているのに、なぜ一方では「文学」や「映画」、あるいは「歴史」(最近の例で言えば、マクロン仏大統領を見よ!マクロン夫人は一部女性の畏敬の対象となっているではないか)に至るまで、文化と呼べるに相応しいレベルに不倫のストーリーは高められ、人々の感涙を誘い続けるのか。石田純一の発言はその限りに於いて正しく、誰も否定できない。
 
その理由は、何故自分が昔から不倫のストーリーに魅了されるのか、その答えを考えれば分かる事に気付いた。
 
少し前に、友人と「人はどうしても悲恋ものに惹かれるよね」と話していて、「現代では、お互い好きなのに結ばれない、というシチュエーションがまず成立しない」と指摘された。
確かに、ロミオとジュリエットのように身分違いで引き裂かれることも、通信途絶ですれ違う事も、戦争や時代の波によって引き裂かれることも、少なくともこの日本現代社会においてはそうそう、ない。なので邦画はあの手この手で、2人を引き裂くシチュエーションを考えては、そのほぼ9割が「難病・死別」という同一の残念な結論に至ってしまっている。文学も映画も、2人が何の障壁もなく淡々と出逢って愛を育んで困難を乗り越えて結ばれました・・・では何ら感動的カタルシスを得る事はないから、大概、障壁の大きさ新しさで勝負することになる。そして大衆が心の底で求めているものは、究極の悲恋、「お互い好きなのに、決して結ばれることがない」悲恋である。
 
お互い好きなのに、決して結ばれない・・・そんなシチュエーションを簡単に実現させる設定は存在しない、一つの例外を除いて。それが不倫である。それも、「お互い既婚者なので、結ばれる為には超えなければならない障壁の種類が多すぎる」、W不倫。
 
したがって私がその他の皆さんと同様、究極の悲恋ものである「不倫物」に惹かれるのも無理はない・・・と言いたいのだが、今ひとつ、「惹かれすぎな理由」が足りない気がする。
 

 

最初の話に戻すと、私はその後、「不倫は悪いこととは言えない」ことの根拠を、「不倫=悪」とする論拠を友人に挙げてもらっては一つ一つ潰すことに求めるという、若干ずるい方法で説明した。
その結果、自分で言語化して判明した私のスタンスは、以下の通り。
 
男女の恋愛に客観的な善悪は存在しない。ただ、当事者である2人(既婚者であれば、配偶者。未婚者であれば、相手方。)の間に善悪があるのみである。だから不倫を糾弾できるのは当事者だけであり、厳密に言えば、純粋な意味での善悪など恋愛においては存在しない。あるとしたら善悪ではなく、勝ち負けにすぎない。
 
ドラマ版「昼顔」の脚本は井上由美子である。ドラマ版の設定は細部に渉って秀逸なのであるが、とりわけ感心するのは、斎藤工演じる北野先生の妻、乃里子の設定である。実はドラマ版「昼顔」で、最もビッチぶりを発揮していたのは上戸彩演じる紗和でも吉瀬美智子演じる利佳子でもなく、乃里子ではないだろうか。
乃里子は「不倫される妻」でありながら、なんと北野先生と出会う前、教授と不倫をしていたのである。その泥沼から「主人が救ってくれたの」「主人は私の王子様」だと、平然と友達に言ってのけている。
主婦友達の不倫自慢に、自分もそんな経験があるのよと盛って見栄を張っただけかもしれないが。
 
そんな乃里子が、夫の不倫を知った途端、阿修羅になる。頭脳戦で証拠を集め、現場を押さえたところで夜叉の形相で紗和に掴みかかる。え、自分の不倫を棚に上げてですか?自分も過去にしていたんだから、不倫をする女の気持ちが分かる筈だよね?・・・・・・なぁんてお戯れな。紗和のモノローグにある通り、「どちらが、より、男を愛しているか」の戦場なのである。
戦いの場では、過去の行状だの善悪だの全てが吹っ飛ぶ。手段も問わない。いかに汚い手を使おうが、本能として迸る感情をぶつけるのみだ。負ければ死ぬ。勝者が残り、敗者が去るだけである。
 
・・・と、そんな恋愛ガチバトルシーンにあっては、「妻・乃里子の過去の不倫」という設定が、後味スパイスのようにじわじわと効くのだ。