6月1日発売の、感覚ピエロの2ndアルバム“不可能可能化”。

 

不可能可能化不可能可能化
2,700円
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音楽をCDというパッケージで購入するのは角松敏生関連のみで、後は配信(しかも滅多にDLしない)で、との姿勢を崩さなかった私。角松に操を立て続けてきて十数年、心に何となく決めてきた誓いを破り、CDゲット!

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不可能可能化”・・・!なんという畏れ知らずなタイトル!このタイトルだけでハート鷲づかみじゃぁありませんか。

 

でもね。

 

このタイトルって、若者限定だよね!間違ってもアラフォー、ましてやアラフィフのアーティストのタイトルではない。想像してみて。角松敏生じゃなくていい、山下達郎でも、小田和正でも、なんならさだまさしでもいい。「山下達郎のニューアルバム“不可能可能化”」。ないない、絶対ないでしょ。

いやちょっと待て。「矢沢永吉“不可能可能化”」ならアリなんじゃないか?問題は世代じゃなく、ジャンルだったか。でもどこか違うな。アラカンの不可能可能化なんて、あらぬ想像をしてしまいそう。

 

アルバムのスタート一発目が感エロらしい王道ロックな“会心劇未来”、これもまた漲る若者感。タイトルだけで畏れ知らずならではの攻めの姿勢をビシバシ、感じる。

アルバム通して聴けば感じるデジャヴ。この疾走感、のみならず焦燥感、何かにせき立てられるようなこの切迫感はなんだろうと、ハタと気付いた“Beatles”のデビューアルバム“Please Please Me”、あの空気と同じでしょ。4人組の若者によるロック。思えばあれも、若者が熱演し、若者が熱狂していたんだった。

 

「普段感エロやKANA-BOONやゲス極を主食としているファンが、角松敏生もつまみ聴きする」ということはまずないと思うが、逆はアリだろう、つまり私。「普段角松敏生を主食とし、他は一切口にしなかったが、最近感エロをつまむようになり、現在絶賛マイブーム中」これ、「音楽に世代は関係ない」と言いたいところだが、実際はメンタリティーのネオテニー化にすぎないかもしれない。いや、真実は単なる青春回顧にすぎなかったりして。年取ったから。まぁなんでもいいや。

 

 

感エロとか岡村ちゃんの淫らな変態エロソングとか、このところ勘違いされてもおかしくない方向性に迷走中とみせかけて。

言いたいのは、つまり「」だっけ。

 

2014年。岡村ちゃんとのファースト邂逅inYoutube『あのロン』。

 

2011年9月20日、SHIBUYA-AXにて。

2016年、更なる岡村ラビリンスへのいざない『愛おしゃ』。

2014年5月5日 Zepp DiverCity TOKYOにて。

 

はじめてこの映像を見た時、私は掛け値なしに感動した。何に、って、心から幸せそうな笑顔で岡村ちゃんに熱狂するファンの姿に、だ。しつこいようだが岡村ちゃんにはこれまでの間に3度の逮捕歴がある。それまでの私が知っていたのは、被告人・岡村靖幸。そんな彼を圧倒的な情熱で迎え支えるファン=ベイベたち。アーティスト・岡村靖幸を知らない私には、衝撃的だった。そして思った。

 

これぞまさしく、愛ってやつじゃないか?

“愛ってやつは 切実でさ 伝えたいのは『あのさ、そのつまり・・・』”これが、愛するってことじゃないか?って。

 

アーティストが、クスリや不倫といった俗に言われるところの広義の「不祥事」をやらかす度、しばしば聞かれるコメントが「作品と私生活は関係ない」とか「人間性はアレでも、作品の素晴らしさは変わらない」とか「才能は認めるけど行為は残念」といった類の「人物&行為を憎んで作品憎まず」系である。酷いのになると「今までファンだったのに・・・失望したのでファンやめます」とか。

この類のコメントを聞く度に「なんか違う・・・少なくとも私は違うぞ」と心で叫び続けていた。だって多くのアーティストにとって「作品」とは、アーティスト本人の体験含めた全人格的な行為によって生み落とされるものでしょ。作品と人間を切り離して捉えることはできない。我らが角松敏生だって、人生いろいろあって音楽活動凍結・でも多くのファンは、そんな角松のあんなことこんなこと全部ひっくるめて丸ごと角松の作品を聴き続けて来ているわけで。それは何があろうが、どんな作品を作ろうが作るまいが、変わらないわけで。

 

当然、岡村ちゃんのファンは、岡村ちゃんが「やらかす」度に、怒ったり失望したり呆れたり、焚書坑儒よろしく「CDを全部叩き割」ろうとしたり(by某ファンブログ)・・・って本気で怒ったり叱ったりするのは愛がある証拠。そこにちゃんと愛がある。だから一時本気で憤慨しても、ファンであることは止めない。それはまるで、親が、我が子の「親」であることを止めないように。

今いる岡村ちゃんのファンはきっと、どうしようもなく弱くて情けない岡村ちゃんを丸ごと受容している。どうしようもなく弱くて情けない岡村ちゃんが紡ぎ出す音楽を愛でる。自滅しては立ち直って戻って来る岡村ちゃんが、再生した後に創り出した楽曲を愛する。もしも仮に、岡村ちゃんが今後(まずありえないが)100回逮捕されても、ファンは100回怒り、そして間違いなく100回赦すだろう。アーティスト愛とはそういうものだ。愛はいかなる力を以てしても止められない。やらかしたからファンであることを止め「られ」る、それは最初から本物のファンじゃなかったんだ。

ましてや昨今、商業主義を背負うマスコミに乗せられて、反倫理的行為と「される」行為をやらかしたアーティストが、次々と似非モラリスト達から血祭りにあう時代である。そんなネタを耳にする度に、ファンに喝を入れたくなる。「アーティストが何をやらかそうが、作品だけじゃなくそんなアーティストの行為ごと全部受け入れて、ファンであることを止めないのがアーティスト愛だろう?」、と。

 

  愛ってやつはコレクションじゃない

  ましてやファッションでもないでしょ?

  愛ってやつは 切実でさ 伝えたいのは

  「あのさ、そのつまり・・・」

 

愛という言葉は抽象的には簡単に口にされるくせに、愛という文字はうんざりするほど氾濫しているくせに、人は、本物の愛に直面した時には口にすることはなく、また、本物の愛であればあるほど、実感することもされることもなくなる。でも本当は気付かないだけで、自分の目の前に愛は溢れるほど転がっているんじゃないか。

恋愛、親子愛、兄弟愛、友愛、師弟愛、人類愛、アーティスト愛、、、愛のジャンルも形もさまざまで千差万別。100人いれば100通りの愛の形があるんだろう。だが、しかし。

 

それらに共通するキーワードが1つだけある、と思う。

 

それは「変わらない」ってこと。

何があっても変わらない、ということ。

 

親子に置き換えれば多くの人は納得するだろう。子がどんな犯罪を犯そうが、変わらない。子が愛してくれなくとも変わらない。ましてや返報など1ミリも来なくとも、少しも変わらない、それが親子愛だろう。それと同じ。

たとえ自滅しようが、たとえお金がなかろうが、姿形に幻滅してもおかしくない激変があろうがなかろうが、あるいはたとえ傷つけられようが、苦しめられようが罵倒されようが無視されようが(ってここまで行けば完全にMか)、更に極論すれば、たとえ愛する相手から殺されたって、それが本物の愛であるならば、少しも変わらない。というか、変われない。

 

愛って、決して変わることのないある一定の「状態」の事をいうのであり、目指して到達するものじゃない。

時には試練もあるだろう。時には試練に耐えきれず脱落することもある。でも、途中で脱落する位なら、それは最初から愛じゃなかったんだ。

そして、愛という状態に辿り着いたのであれば、もれなくセットで「幸せ」な状態が訪れる。これも意図して掴み取るものでもない。愛した結果、得られる副次的な贈り物、これまた「状態」に過ぎない。「幸福」という名の。

 

だからどうです、岡村ちゃんがライブで歌う「愛はおしゃれじゃない」における、ファンのこの幸せそうな姿。愛って、何があっても「変わらない」んだなぁ。こんなに多くのファンから愛されている岡村ちゃんも幸せ者だなぁ。

 

・・・そんなことを考えながら聴いていると、ちょっとエロい筈の歌詞も声もかき消されて、幸せすぎてじわりと涙がでてくるのであった。

 

でもって「愛おしゃ」収録、岡村靖幸最新アルバムタイトルが“幸福”。オチが付きました。

 

幸福幸福
3,300円
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