稀にだが、趣味で人を占うことがある。

私自身、占いなど超自然科学的な物象を信じていないので、笑ってしまうのだが、
そんな超現実的な自分だからこそ、相手も信頼して、「話半分に」聞いてくれる。
それは完全な我流で、手元にあるデータ本を見ながら、自分の言葉に置き換えて、その人の運勢を語る。
その時は意識せずに、言葉を選び取っている。その人の励みになるような言葉を、無意識に拾い上げている。きっと、世間の占い師の個性は、言葉選びに出るのだろうと思う。

私の言葉に友達は励まされた、と言ってくれる。折に触れて何度も、あの時の「占いの言葉」を励みに生きていると言ってくれる。

嬉しい反面、私はふと怖くなる。

人がかくも言葉に縋るならば、私に僅かでも悪意があれば、あるいは僅かでも私欲があれば、自分に対する信頼を利用して、人をいかようにもコントロールできるのではないか、と。

私が日頃注目している「スピリチュアル遊び」を商売にしている人達も、意識せずに、自分の言葉に酔いしれ、自分の発する言葉に人々が踊る様に酔いしれているのだろう、と思っている。もしかしたら奴らは確信犯かもしれない。




私の綴る言葉に、ある人達は「励まされ」「共感し」「溜飲が下がった」という感想を持つ一方で、その同じ言葉に対し、別の人達は「共感しない」「つまらない」「うんざり」しているかもしれない。
少なくとも、スピ漬けになった人にとっては、「傷つく」「腹が立つ」「全く違うと思う」などと、真逆のことを感じているだろう。

でも、それは、まったく同じ言葉なのだ。



どうあがこうが、人間が社会性ある生物である以上、また知性を持つ生物である以上、「他人の言葉」に強く影響を受けることは否定できないはずだ。

そして、私もまた、心のどこかで「言葉」を欲している。私の発した言葉が誰かの支えになっているように、私もまた、誰かの言葉を支えとして、生きている。

その言葉は、普遍ではないのに。
根拠がないかもしれないのに。
移ろいやすい心の「その瞬間」を切り取ったものに過ぎないかもしれないのに。

それが証拠に、私の言葉は、ある人にとっては快哉である一方で、ある人にとっては嫌悪でしかないのだ。
言葉とは、受け止める人によって、その姿を全く変えてしまうものなのだ。100人いれば100通りの姿を持つ、相対的な存在なのだ。



自分が心から思っている事を、安易に言葉にしてしまい、痛い思いをした事は数知れない。
こちらの意図とは全く異なる「誤解」をされて、哀しい思いをしたこともある。

自分の発する言葉など、進化する過程の「いま」を切り取ったものに過ぎず、根拠もなければ確信もない「相対的な」存在なのだと分かってさえいれば、
少なくとも今の自分にとって「絶対的な」言葉である限り、誰からどう思われようと、どう感じられようとも、自分の言葉に恥じることはないんじゃないか。



人にかける言葉は難しい。人から「あなたの言葉のおかげで・・・」と言われる度に、嬉しい反面、怖くなる。怖さの余り、次にかける言葉に躊躇する。


でも、自分自身を偽らずに発した言葉ならば、それでいいじゃないか。それでいいんだ。

そう自分に言い聞かせて、言葉を自分の内から探すのだ。