前回、ダメなスピリチュアルの3要素として、
①やたらお金がかかる 
②集客の為にインターネット使いすぎ 
③批判を怖れ、批判に対しては逃げるか攻撃してくる
を挙げました。③については、「批判」がスピ職人にとって死活問題だから(生活の糧だから)と理由付けましたが、スピ職人でない、普通のスピ人も批判を怖れ、議論を避けるのです。
これは一体、どういうことでしょうか。

精神世界の教科書的な本が幾つかありますが、バーソロミューもその中の一つに挙げられます。バーソロミューと言っても、パズドラやワンピースのキャラ、海賊の名前でもないですよ。バシャールと同じく、なんとかという人間がチャネリングで宇宙の言葉を語ったとされる、その意識体の名前なんだそうです。←多分不正確ですけど、余り正確かつ詳しく書いても余計な情報が頭に蓄積されるだけなので、正確な背景は割愛します。肝心なのは、中身なので。

スピリチュアルが批判を受けるとどうなるか、というテーマであれこれ考えていましたら、たまたま、師匠からあるスピ人のブログを教えてもらい、そこにバーソロミューの本の内容が書いてありました。
そして、そこに、私が探していた答えが書いてありました。

コピペは好きではないのですが、スピ業界人はこのコピペが大好きで、思考も全部コピペなのです。最後までコピペで、自分の思考というものが全くないのです。
私の場合は、コピペをした上で、自身の解釈と感想、分析を付け加えますので、しばしコピペ文章お許し下さい。


自分の心のどこかで他人を批判する者は、自分自身をも批判しているのです。
そして、他人を批判することで他人に優越感を感じる必要を持つ、
そういうあなたの部分こそが、あなたがしっかり吟味すべきところなのです。
批判するとか、裁くというのは、人間の持つ性質のなかでも、
最も人とのあいだに対立を起こさせるものです。
裁きの心は、どんなときにも、誰をも、何事をも、癒しません。
裁きの心は人を殺します。
人の心理構造のなかには、自分の内面を見つめたくない部分があって、
代わりに外界に目を向けさせるよう仕向けるのです。

(中略)

人を裁く心が裁く人を殺すのは、
それがその人を肉体のなかに閉じこめてしまうからです。
人を裁いているときに、人はその行為を自分の意識のなかや肉体のなかに
感じることができます。
ハートのセンターに、重石がのっているような気がすることがあります。
裁きは、愛の欠如です。



何度読んでも訳の分からない文章ですが、何度か読むうちに、この文章、というよりこの思想の中に隠された一つの強烈なメッセージを読み取ることができました。

それは、「批判することを、人を裁く、悪いこと・いけない作用だと思い込ませる刷り込み」です。

バーソロミューは、「批判すること=裁くこと」であり、批判することも裁くことも、対立しか生まない、人としていけないことだと説いています。

(ついでに、「批判する者の心に問題がある」として、やはりここでも全て「自分に原因あり」とする「全部自分に還元主義」がしっかり根付いています。以前指摘した通りです。しかしその問題は今回の主題から外れますので、これ以上検討しません)

ここで既に二つの明白な誤りがあります。

「批判」と「裁き」はイコールではありません。
むしろ、全く異質な作用であり、全く異なります。

「批判」とは、ある考え方を検討し、その考え方と異なった考え方を示すことです。多くは「評価」を含みます。「その考え方はここが間違っている」という正誤の指摘もあるでしょう。
ですが、「裁き」のように、必ずしも「善悪」の評価を含むとは限りません。「裁き」は善悪の評価のことです。「批判」は対等な関係で指摘するものですが、「裁き」は実際はどうあれ、心理的には上から、しかも一方的に判断します。

「批判」は人間の叡智の営みであり、知的な刺激を与え、人間の精神の進化の源となります。学問の多くは、批判によって成長・発達してきました。ですから、批判が半ばライフワークのようになっている分野もあります。
私の知る限り、刑法学会は最も批判によって学説を先鋭化させてきた分野です。刑法学者は議論が大好きです。○○説という、自説を支持し、他説を批判します。先日もある刑法学者が、「君はまだそんな旧くさい説を支持してるの?僕から言わせたら完全に崩壊してる」と他の先生をバカにしていました。ハッキリ言いますが、先生方は別に仲が悪いわけではありません。自分とは全く相容れない、反対説の人とも平気で組んで仕事が出来るのが多くの刑法学者です。彼らは、「批判」を受けると多いに喜び、エキサイトしながら応戦するのです。うっかり学生が批判的な事を言おうものなら、勝手に「批判」ととらえ、嬉々として反論してくる、楽しい人種です。
別に刑法学者に限らず、学問というのは、常に、批判と自己批判を繰り返すことで成長していきます。批判とは、極めて知的な行為なのだと思います。

もっとも、ここでの「批判」は、「他人への批判」ではなく、思想や学説、考え方への批判です。個人に対する批判ではないことに注意が必要です。
ただ、スピリチュアルに対する批判は、その根本思想に対する批判になるので、その思想を自身の中にどっぷりと根付かせている人ほど、自分という個人に対する批判だと思い込んでしまうかもしれません。スピリチュアル思想に対する批判は、その特質故、どうしてもそのような危険性があります。



前回お示しした「良い宗教3つの条件」のうち、三つ目の「批判を受容する」という条件、これが私は最も重要な要素だと考えると書いたのは、人間が持つ素朴な疑問や、挑戦的な批判に対し、誠実に応えようとする姿勢のない宗教に、人を救える力の正当性を見いだす事などできないからです。

私は、「批判」された時に、その人の本質が見える、と昔から思ってきました。
余談になりますが、大学1年生の頃、私はまだ若く、子どもじみた事が好きで、期末試験の答案に、その先生の講義内容を批判し、「私は逆にこう考える」と、勝手な自説を書いて勝手に挑戦状を書き付けては、悪い評価をよこした教授の事を「器の小さい先生だ」と内心笑う、という幼い行為を繰り返していました。
ある講義の期末試験では、予想に反して「A」評価が来たので驚いて先生の処に謝罪に赴きました。「大変失礼な事を書いたにもかかわらず、なぜ、一番良い評価だったのか」と尋ねたところ、「あなたの批判にも一理あると思ったからです」と語られました。私は心の中で尊敬の念を送り、そして、それから二度と、答案に先生の講義と逆のことを書いて先生を「試す」という愚かな遊びをすることはありませんでした。

私はその後、幾つかの学問の場を渡り歩く機会に恵まれ、様々な先生が自説を熱く語り、他説をこき下ろし、知を闘わせる「遊び」を見てきました。あるいは社会に出て、思考や行動を批判されたり批判したりすることで、反省したり、考えを変えたり、自説を修正してきました。批判とは、実は「疑問」が出発点なのです。「なぜ」という素朴な疑問を出発点として、理屈を後付けし理論構築したものが「批判」と言えます。


ですから、バーソロミューのもう一つの誤り、それは「批判」というものが「対立しか生まないいけない行為」だとする点であるとはっきり言えます。それは「批判」ではなく「非難」であり「誹謗中傷」「罵詈雑言」ではないでしょうか?正しい批判は、人間の成長に不可欠なものです。批判は対立を生むのではなく、「創造」を生むのです。

バーソロミューは、自分で「判断してはいけない」と言っておきながら、それ以前に、「批判はいけないことである、という判断」を下しているのです。しかも、「裁きの心は人を殺す」と言っておきながら、批判を「悪」であると断罪しているのです。その矛盾を指摘することも、いけないことだというのでしょうか。



バーソロミューに限らず、スピ業界は「批判」が大嫌いです。スピ用語辞典に存在しない言葉として「責任」の他に、この「批判」もあるかもしれません。それはなぜかと考えると、やはり、「批判」というものが高度な知的作業である以上、スピリチュアルの中に「疑問を持たれては困る何か」が存在しているからなのでしょう。スピリチュアルが人間から真の思考力を奪うことの当然の帰結として、「批判」精神を持つ人の存在を認めるわけにはいかないのです。
だから、生活の糧としていない普通のスピ人含め、全てのスピリチュアルは批判に答えられないよう洗脳されている為、批判を怖れるのです。



(続く)