25日、大阪市住之江区にある市立南港緑小学校の体育館では同日付で退職した前校長の千葉貴樹氏(38)が臨時の全校集会を開き、児童にこう告げた。

 「先生の個人的な事情で、みんなと『さよなら』しないといけなくなりました」。

 突然の別れに泣き出す児童もいたそうだ。
 1学年1クラス、児童数152人の南港緑小に千葉氏が着任したのは4月1日。児童が校長室に入りやすいようにするため、室内を隠す仕切りを取り払ったといい、「児童は校長室に入って話をしたり、校庭で一緒に遊んだりしていて、千葉氏を慕っていた」という。
臨時集会の直後に校内で開いた記者会見。千葉氏は記者団から学校を混乱させたことへの謝罪の気持ちを問われ、「不祥事で辞めるわけではないので、謝罪するつもりはない。人それぞれにモノの考え方がある」



今回の記事は、カテゴライズに悩む。

橋下市長鳴り物入りで導入した「民間市長」「民間校長」が、次々と頓挫しており、アンチ橋下としては「ほれみたことか」と冷ややかな視線を向けるのみであった。

そういう意味では、「橋下徹ウオッチ」にカテゴライズすべきなのだろうが、橋下の正体に世論がようやく気付き始めた昨今、私の興味は急速に薄れているので、これ以上取り上げるつもりはない。



今回ちょっとひっかかったのが、こちらのニュース


 教育評論家の尾木直樹氏はこう切り捨てた。
 「学校を引っかき回して、さっといなくなった印象があり、児童たちが心の傷を受けていないか心配だ。教育現場にマッチしていない人を選んだ市教委の責任も重い」



児童たちは、こういうとき、「心の傷」を受けるものなのだろうか?



いつだったか、いじめを受けた時、一応学校が真摯に対応してくれたのだったが、この時のいじめ行為がいじめではなく「犯罪行為」に該当していた為、私は親としてより厳しい対応を学校に求めたことがあった。

その時、担任の先生とのやりとりの中でひっかかる言葉があった。


「暴力などを受けて、その時の肉体的苦痛もさることながら、○○君が受けた心の傷が心配だと」


私自身は、今まで集団暴行をされたことはないが、少年犯罪のルポにおいて被害者やその遺族が集団暴行をされた時の様子や心境が書かれているのを読んだり、また、極めて近い家族が集団暴行を受けたのを間近で感じる中で、その時、被害者の心の中に何が残るのかを想像し、想像させられてきた。

私が感じるに、それは、「心の傷」などという一言では済まされない。

その心を強いて一言で表すならば一番近いのは「絶望感」ではないだろうか。
そして、大人や社会に対する「不信感」である。

不信感は、教師や親を中心とする大人が、払拭してやるしかない。
絶望感は、自分で乗り越えるしかないだろう。まだ、命があるならば。




尾木ママは、希望を持たせるような事を言うだけ言って校長先生がいなくなった事態に直面させられた児童について、「心の傷を受けていないか」と評した。


違うだろう。それは、「心の傷」ではなく、言うなら「不信感」だ。




重傷だろうが軽傷だろうが、傷がついていようがついていまいが、なんでもかんでも「心の傷」のひとことで括ろうとするから、「心の傷」という言葉が、とても安い言葉に成り下がっているような気がする。