先日、「30年後の責任」という記事を書いたが、その中で取り上げた4つの裁判の2つ目、7月30日裁判員裁判の大阪地裁判決について、真っ向から批判し、激怒するブログをある弁護士が書いていた。
この判決は、一人の殺人に対し、求刑16年を上回る懲役20年の判決を下したものだったが、
その理由が「家族が同居を望んでいないため障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが強く心配される。許される限り長期間、刑務所に収容することが社会秩序の維持に資する」というものだった。
そして、その「障害」というのが、広汎性発達障害の「アスペルガー症候群」だというのが、これが弁護士の怒りに火をつけたようだ。
普段は冷静で緻密な理論を積み重ねた分析を得意とするこの弁護士ブログも、この日だけはやや強引な内容になっており、感情を隠さない。というのも、この弁護士自身、広汎性発達障害だということをブログ内で告白しているのである。


専門として研究してもいないので、軽々に発言することは慎むべきとは思うが、敢えてこの問題について若干の考察を加える。


アスペルガー症候群が犯罪において注目され始めたのは、私が知る限りでは、2006年の、奈良県の高校生が、自宅に火をつけ、母親と妹が焼死した「奈良エリート少年自宅放火事件」や、2005年の、静岡県の少女が母親をタリウムで毒殺しようと日記をつけていた「静岡タリウム少女母親毒殺未遂事件」において、犯罪を犯した少年・少女がアスペルガーだったと診断された頃ではないか。
ジャーナリストの草薙厚子が、この問題を追及し、真相に迫ろうとするあまり、少年の供述調書を入手、手を加えることなくほぼそのまま著書に掲載したことから、その本「僕はパパを殺すことにきめた」が事実上の発売禁止になった。そればかりではなく、少年の精神鑑定を行った医師が、刑法上の秘密漏示罪で逮捕されてしまった(草薙厚子は不起訴)。
この事件について思うところはあるが、触れれば一言では済まないので、ひとまず今回は脇に置く。
何れにしても草薙氏の、アスペルガーが未成年犯罪においていかなる影響を及ぼしているのか、その対処を考えるためには犯罪の背景と真相を明らかにすべきとする気概には大いに賛同する。と同時に彼女は、アスペルガーが世論に誤った印象と理解を与えている事にも憂慮し、世間の誤解を解くことにも腐心していた。
その後、世間を騒がせた犯罪の背景にアスペルガーがあり、その背景を緻密に取材し明らかにしたルポが世に次々と送り出されたことにより、かつて草薙氏が行った、供述調書を公表するという危険な試みを経なくとも、我々は犯罪の真相の一端に触れることが可能になっている(あれは未成年の犯罪だったので、供述調書を入手しなければならなかった。その後、成人の犯罪者がアスペルガーの診断を受けることによって、取材が容易になったという経緯がある)。

アスペルガーの犯罪が殊更報道されがちなのは、前回も触れたが、それが、一般的感覚では理解不能な犯罪、もう少し補足すると、一般的感覚では理解不能な「動機」による犯罪だからである。
それはアスペルガーが、一般的とされる感覚とは異なった感覚の持ち主だということからすれば当然の帰結である。
従って、アスペルガーだからと言って、犯罪を犯す可能性が高いという認識は全くの誤りである。
それは、精神疾患者の犯罪が多い印象を受ける一方で、実際の割合はむしろ低いか、常人と同じであるというのと同じである。
もっとも、アスペルガーなり、精神疾患者なりが犯す犯罪の種類を見れば、もしかしたら常人の犯す犯罪の種類とは統計的に異なる値を示すかも知れない。それは細かな検証が必要である。
ただ、一般的には、「変わらない」「同じ」という理解で良いと思われる。
特異な犯罪であるから、報道される。報道されるから、多いという印象を与えてしまう。
ただそれだけのことである。



私が直に接したことのあるアスペルガー症候群の人は二人である。一人は息子の前の学校の同級生で、もう一人は、私が勝手に「彼は間違いなくアスペルガー」と心の中で思っているだけである。
二人とも学業成績は極めて優秀である。私が勝手に診断している友人の方は、物凄く頭が切れるし、その優秀な頭脳に遜色のない職業に就いている。
ただ、私も何度となくカチンと来る発言を、他意無く幾度となく繰り返す。例えば私は彼に、定期的に司法試験の答案を書いてコメントを求めるのだが、彼は一度だって私の答案を褒めたことがない。
同じ答案を別の弁護士に見せると、5褒めて1の不足を指摘してくれるのに、彼ときたら、10貶めて終わりである。せめて「概ねOKですが・・・」の言葉くらい欲しい。しかもそのけなし言葉が容赦ないんである。コメントが返って来る度に、腹が立って仕方がない。
彼の悩みは、人間関係だ。先日は職場の同僚から、「あなたはいつも私をバカにしてばかりいる」とブチ切れられていた。彼に全く心当たりはない。私には、その同僚の気持ちはよく分かるし、全く心当たりがないと困惑する彼の気持ちもよく分かる。
彼の優しさは、私にせっせと、有益な情報を送り続けてくれる所にある。引き受けてくれれば誠実にこまめに、応えてくれる。それも彼は、私がいつも彼の「人間関係のお悩み」話を聞いていることの引き替えというか、ギブアンドテイクのギブとして行っているのだと聞いて、非常に彼らしいと思った。
言うまでもないが、彼はこの先も、いかなる犯罪とも縁がない人生を送ることになるだろう。

もう一人は、「うちの息子はアスペルガーなので、皆さんにご迷惑おかけするかもしれない」と公表されたご家庭の息子さんだった。
彼もまた、物凄く頭の良い子だった。
若干のトラブルはあった。息子が、訳もなく毎日給食の時間、彼から叩かれて泣いていたらしい。
しかし、ここは声を大にして強調したいのだが、息子は前の学校で、クラスの男子全員から集団暴行を受けていたのだが、実は、ただ一人、最後までそのいじめに加わらなかった子がいた。
その子が、アスペルガーの彼だった

いじめは最初は、2~3人からスタートしていた。次第に加害者が増え、最後は女子も加わって、男子は彼を除いた全員が、加害者だった。
加害者の一人に先生が聞いたそうだ。「何故、いつも途中から加わっては反対側につくのか(先生は決していじめという言葉を使わない)?」
答えは「大勢の側についた方が面白いから」。
これは本能レベルの正直な答えだ。加虐性は誰にでもある。大勢で一人を虐めたほうが、本能(野性とも言う)は満足する。正義感とか、敢えて反対側を守るとか反対側に付くというのは、「後に植え付ける道徳心」によってしか、選択できない。大勢で一人を虐めるという行為は、実に野蛮な行為なのである。
アスペルガーの特徴を象徴する言葉として、「空気を読むことができない」というのがある。
クラスの他の児童は、空気を読んで、多勢側についていじめを盛り上げた。
そんな邪悪な空気も読まず、教室で大乱闘を繰り広げている中、彼は飄々と一人読書に勤しんでいたと聞く。彼は、アスペルガーであるが故にいじめられたりしないよう、母親があれこれ対策し手厚くケアされていたので、前途は洋々に違いないと私は信じている。



ことほどさように、アスペルガーと犯罪に何の相関関係もない事を実感している私であるからこそ、前出の判決に対し、異論どころか賛同するものである。
確かに、ブログ弁護士が指摘するように、「家族が同居を望んでいないため障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが強く心配される。許される限り長期間、刑務所に収容することが社会秩序の維持に資する」というのは、障害がアスペルガーだというのであれば、それを理由に量刑が伸びたという印象を強く受ける。

判決文全文を入手していないので、ここから先は憶測になることをお許し頂きたい。

「家族が同居を望んでいないため、障害に対応できる受け皿が社会になく」とある。
家族とは、誰か。父母か、親戚か?
そこが分からないのだが、一般論として、家族であれば、出所後の人生を支援しようとするのが普通である。それが殺人事件であっても、である。
以前書いた、大阪姉妹殺害事件の犯人、山地悠紀夫も、16歳で母親を殺害後、彼を支援してきたのは、叔父だった。誤解から、途中で悠紀夫の方から、連絡を絶ってしまったのだが。
家族が支援しようと思うのは、最大のものは、本人が犯行を反省していることが前提となる。
犯行を反省し、二度と繰り返さないと本人が誓い、その真摯さが伝わることで、はじめて支えてやろうと思うものである。
「死刑でいいです」に書いてあったことは、アスペルガー症候群の子が犯罪を犯した場合、通常の「反省」を促すステップは役に立たない。何故なら、普通は「自分が同じ事をされたらどう思うか」という所から反省への第一歩がスタートするところ、アスペルガーは他人の情動を理解できないので、通常言うところの「反省」することが難しく、独自のプログラムが必要だ・・・ということだった。
この裁判の被告人は、「反省」していないのではないか。
30年間引きこもり、援助してきた姉を殺害した。何か理由があったのだろう。
しかし殺害の事実を心から反省し、もう二度としないと、家族が信じてあげられる何かがあれば、家族だけは、出所後の彼を、支えてやろうと思う筈である。
それがなければ、できるだけ長く刑務所にいて欲しいと思うしかないではないか。
そもそも、殺人罪の最高刑は、死刑なのである。
人を殺しておいて、罪を問われないのは、触法未成年か、完全責任無能力者のみであり、
責任能力が認められる以上、死刑を含めた刑罰を科せられるのは当たり前である。

アスペルガーと刑罰は関係ないのだ。
アスペルガー故に、引きこもってしまった。アスペルガー故に、彼なりの殺害の正当化事情があった。アスペルガー故に、刑務所に長くいるべきだとされてしまった。
これらは別に、「アスペルガー故に」を全部削除しても立派に通じる。
ひきこもってしまった彼の背景にアスペルガーがあったことを、刑罰に考慮に入れることは、逆に偏見を生む。「アスペルガーだから減刑された」という例があってはならないことは、ブログ弁護士自身も認めている。弁護士の怒りは、求刑を4年上乗せされた判決に対してであり、アスペルガーという障害を理由に宣告刑が伸びた、裁判員の判断が偏見に満ちている、と声高に主張する。
しかし、出所後の受け皿が存在しない以上、求刑以上の懲役刑を科すことが、家族、即ち遺族の望みなのであれば、これも仕方がないのではないか。
量刑を左右する大きな判断基準に、「遺族の処罰感情」があるのだから。遺族が、「出所後同居なんて冗談じゃない!できるだけ長く入れといて下さい」と言うなら、従うしかないではないか。
その背景には恐らく、被告人の無反省があるのだ。

支援してくれていた筈の姉に対し確定的殺意を以て惨殺し(殺害方法も、例えば激高して突き飛ばしたり怒って殴り続けたら死んでしまったというものではなく、何度も何度も刺しているという点は考慮されなければならない要素である)ていれば、余程の反省をしていない限り、出所後の支援を引き受けるということは次なる犠牲を名乗り出るのと同じことであり、
裁判員は家族=遺族の立場に立って、量刑を決めたに過ぎず、アスペルガー云々は実は関係ないのだと、思い至るのが普通であろう。
判決文を見なくても、確実に予測できることは、
被告人が真摯な反省の態度を示していないのではないか、ということである。
それは、家族の行動から分かるのである。

責められるべきなのは、アスペルガー用の贖罪プログラムを構築しないでいる刑務所や、出所後の更生システムが機能しない現状であり、それらは行政の役割である。


今回の問題は、偏見はないのに、偏見があったように見え逆に偏見を増幅させるような判決文の書き方に、問題があったのではないか。





この判決に対し、障害者団体や支援者個人が、激しい怒りと共に批判を加えているようだ。
判示の仕方には問題があったとは思う。しかし、結論はやむを得ないだろう。
判決理由を正しく理解した上で、激しく批判する人は、ならば、あなた自身が、十数年後出所した反省なき被告人に援助の手を差し伸べ、同居し、生活の面倒を見ながら支援することを確約できるかと問いたい。
若しくは出所後の再犯の怖れはないと保証してくれるのか、万一あったならばその責任を取れるのかと問いたい。

障害と量刑が真に関係がないからこそ、このような判決を出すことが出来たのではないだろうか?