井の頭線の線路の両側に、
朽ち果て行く茶色い塊となった紫陽花の残骸が群がっている。

つい一月前まで、
群青色のグラデーションとなってこの世の春とばかりに咲き誇り、
誰もが目を留めて心の中で感嘆を漏らしていた筈なのに、
今は誰の目に留まる事なく、
むしろその醜さをただひたすらにさらけ出すのみ・・・

大輪の紫陽花は、華の時代の美しさと対照的に、
枯れ行く時は、ただの茶色い塊である。
花の中には、椿のように、美しいままポッキリ落ちて行くものもあるが、
紫陽花は大きく咲いた花がそのまま、枯れていくものだから、
無残としか言いようがないのである。

なんだか、人間みたいだなぁ。

すみれのように地味に咲く花は、地味に枯れて行くし、
バラは美しいその色を留めたまま、花びらが次第に落ちて枯れて行く。
紫陽花は、花の美しさと、枯れゆく時の落差が大きい。。。

どのような老い方をするにせよ、
花は必ず枯れ、人間は必ず老いる。

若い自分は老いなどとは自分とは無縁とばかりに、
心の片隅にさえ一片もなかった。
老いゆく親を見る時分になっても、
自分もいつかそうなるのだと、漠然と感じるのみだった。

最近ようやく、老いというものを真剣に受け止めなければならないと、
そんな心境になってきた。

ある日鏡を見たら、そこに映っているのはかろうじて色を留めた紫陽花ではなく、
ただの醜い茶色い塊だったらどうしようと、そんな不安に駆られたりする。

容色だけではない。
身体のあらゆる機能が衰え、病らしき兆候を抱えるようになり、
あらゆる意味で、自分には時間がないと感じる。

・・・

でも、よく見れば、
その朽ち果て行く紫陽花の群れは、今の高齢化社会である日本そのもの。
今の老人は、どこにでも行くし、どこにでもいる。
電車の中を見渡せば、アクティブな老人の何と多いことだろう。
老いて尚、枯れても尚、しぶとく、生きていけるんじゃないか。
老獪と言われようとも、老醜と言われようとも、しぶとく群れ、
根を張って生きている、紫陽花のような老い方もいいんじゃないか。

・・・と思う一方で、花の色を少しでも長く維持させようと、
鏡の中で往生際悪く格闘する、自分もいる。

やっぱりまだ、若さを諦めたくないもんなぁ。
それは人間の性?女の性?
あじさい