冷えから頭痛がするのなら、頭を温めればいいじゃないかと思うのだが、それは間違い。
 なぜなら、冷えているのは、頭じゃないからだ。

・・・とかなんとか書いてから風呂に入り、
「いやー さっき私、凄いこと書いた。言葉が降ってきた」
と自画自賛しつつ湯船でうっとりしていたのでした(笑)
さっき自覚したんですね。いや、分かってはいたんですよ。風呂で全身を温めると私の頭痛が取れるってことは。これは血流だと思っていたんですね。元々血流に問題ありな体質ですし。
それだけじゃなかった。
そっかー。全身、もしかしたら内臓も、冷えていたのかもしれん。

小さい頃「スコット探検隊の悲劇」を読んでから、遭難ものに取り憑かれていたのですが、
3年前「大雪山系トムラウシ遭難事故」があり、あれから山岳遭難のルポばかり読んでいた時期がありました。
「低体温症」の仕組み、恐怖は、最近になってようやくクローズアップされるようになったそうです。
「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか 」は、生存者が語ってくれたからこそ詳細が明らかになり、一冊の本になったのですが、尊い命と引き替えに、真実を後世に語り継ぐ事が求められていると私は思います。
だから、この本は、全ての人に必読の書だと思います。

そして、この本を読み、低体温症という現象が頭に入っていたからこそ、自分の頭痛という長年の悩みの種に「冷えているのは頭じゃないから」とひらめいたのです。まったくもって、貴重な書です。

トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか/羽根田治
¥1,680
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さて。


どうしても決着をつけたい、木嶋佳苗。
約一月前。
予想通り死刑判決が出たのだが、いざ出てみると、ざらりとした違和感が残る。
「裁判は、大変難しかった」と顔出しで語る裁判員。ちょっと、死刑判決を下した人の顔とは思えない、無論苦悩に苦悩を重ねたのだろうが、清々しささえ感じる。
多分、普通の一般的な法曹関係者は、この判決をやや意外にとらえているだろう。
間接事実だけで、さしたる動機も認定しないまま、
一つが黒に限りなく近いグレーで、それと並べるともう一つも黒に限りなく近いグレーに見えて、ついでにもう一つ並べちゃうと、三つとも一気に真っ黒に見える・・・みたいな手法で、
それで死刑判決だ。
裁判員裁判ではなく、これが10数年前の裁判であれば、三つの殺人を認定することはなかったような気がする。

木嶋佳苗については、その人生観やら性的価値観が非常に特異なものとして、マスコミ的にはそちらの方がクローズアップされてしまっている。
確かに木嶋佳苗の人生というか人間性、語録、目が離せなかった。
そして今度は、木嶋佳苗は獄中から、新たにメッセージを発信し続けるというのである。
この女、どこまで懲りないのか・・・
というより、私はほぼ確信に近いのだが、木嶋佳苗、恐らく「心底自分ややっていない」という妄想を抱いているのだ、と思うのだ。
嘘ばかりついているとどれが本当かわからなくなる。言い聞かせていると、本当にそんな気がしてくる。
その結果、木嶋佳苗は、自分は練炭に火をつけて立ち去ってはいないと、心から思うようになってしまったのではないか。

木嶋佳苗について考えるとあれもこれも思考が分散してしまい、それだけで一冊分の本になってしまいそうな(いやそれはもう、北原みのりさんが完璧なものを書いたから)と戒め、
たった2つのことに絞って、書き残すことにした。

まずは「量刑」だ。

私があらゆる殺人の中で、一番酷い殺し方だと思うのは、一人の人を、よってたかって数人で嬲り殺す、いわゆる集団リンチである。
これは、されている方は何重もの絶望感を抱きながら死んでいくのである。肉体の激痛と、それから、何人もの人間から攻撃され、誰も助けてくれないという、精神の激痛。孤独。
死にたくないという生への本能を凌駕する程の、早く楽になりたいとさえ思う痛みと、絶望。
そして訪れる死。
遺族は、ボロボロになった遺体を前に、何回衝撃を与えられるのか。「死」という事実を突きつけられるだけではないのだ。
「魂の殺人」は、何もレイプだけに言えることではないのだ。

ところがこの、集団暴行によって一人死んでも、加害者に死刑判決が下る事は、前科でもない限り、まず、ない。
大概が「殺意がない」、即ち「傷害致死罪」で終わる事が多いからである。
更には、仮に殺意が認定され、殺人罪に持ち込む事ができたとしても、それでも死刑判決には至らない。
殺された人数が一人だから、ということも理由であるが、「集団心理」により興奮し、エスカレートすることがままあることが考慮されているからだ、と言われている。
この「集団心理」というものも、大昔心理学を囓った私にだって、何となく分かる。しかしここでこれ以上追及はしない。
私が今問題としたいのは、被害者の心の方だ。

「恐怖の代償」は、量刑に反映されないのか?

こんな事件がある。
裁判員裁判制度になって初の死刑判決として大きくニュースになったことから、記憶している人も多いだろうが、「横浜港バラバラ殺人事件」。詳細をヤフーニュースで見て眠れなくなった人も多いのではないだろうか。
命乞いをする被害者を、「殺してから切って下さい」と懇願する被害者を無視して、電動のこぎりで首を切断して殺したというあの事件である。
前から切るか後ろから切るかと尋ね、後ろからと言わせたそうだ。こんな酷い事件がかつてあっただろうか。
被告人はもう一人殺しているので、迷うことなく死刑事案であり実際も死刑判決が下ったのだが、被告人が真摯な反省の態度を示していたため、裁判員は苦悩の末の決断だったらしい。
実際、この被告人は控訴を取り下げ、死刑執行を待っている状態である。
しかしそれさえも量刑に反映されない程の、酷すぎる犯行態様だったのだ。

一方、木嶋佳苗が起こしたとされた、3件の殺人事件だが、三人とも、練炭で眠るように亡くなったことは証拠によって明らかになっている。
中には疑念を持ちつつ、持ったことを悟られて殺られてしまった方もいたかもしれないが、特に大出さんは、これから訪れる春の予感に胸躍らせ、まさに幸せの絶頂の中、夢を見ながら死んでいったのだ(と、亡くなる前日の彼のブログからはそう推察される)。
それはそれでむごいといえばむごいが、少なくとも、彼らは「死の恐怖」はじめ、「肉体的な痛み」も「精神的な絶望」も与えられていない。
同じ殺人でも、天と地ほどの差がある。
それでも、意に反する「死」という結果はすべて、同一である。


今日、こんな判決がニュースになった。

大阪・平野の母娘殺害、裁判員裁判で無期判決

読売新聞 5月23日(水)19時35分配信

 大阪市平野区のマンションで昨年6月、元交際相手の山下裕美さん(当時27歳)と、その母親の香代子さん(同61歳)を刺殺したとして殺人罪などに問われた朝鮮籍の無職文原(ふみはら)(本名・文(ぶん))青児(せいじ)被告(36)の裁判員裁判の判決が23日、大阪地裁であった。
 遠藤邦彦裁判長は「2人を何回も突き刺しており、執拗(しつよう)で残忍な犯行だ」として、求刑通り無期懲役を言い渡した。
 判決によると、文原被告は同月24日朝、マンションベランダから山下さん宅に侵入し、部屋にいた2人を多数回刃物で刺し、殺害した。
 判決で遠藤裁判長は、事件前の文原被告について、裕美さんが会うことを拒む回数が増えたのにもかかわらず、繰り返し面会を求めていた、と指摘。犯行動機を「裕美さんと仲直りできないことで自暴自棄になった」と指摘し、「身勝手で酌むべき点は全くない」と述べた。


これは二人殺しているのだ。それも、何の落ち度もない、関わりもない母親までも殺している。
記録を見ていないので何故、求刑段階から死刑が外されたのか分からないが、どうも、「元交際相手」という点に、被害者側の落ち度というか、そんな含みを持たしているような気がする。
日本の裁判は、利欲がらみ(強盗殺人や身代金誘拐殺人など)の殺人には厳しいが、色恋沙汰や情がらみの殺人には甘いのではないか。
木嶋佳苗の裁判でも、検察側のシナリオとしてなんとか「金を欺し取ったことがばれそうになったので殺した」という方向に持って行こうとした理由もそこにある(証拠によって認定するのが難しかった為動機は敢えて解明しなかったが)。
でも、この36歳の文青児という名の被告人は、20年かそこらで刑期を終えたら、この社会に戻ってくるのである。二人の女性を、ナイフで何度も何度も刺し殺した、この男が。
仮に、木嶋佳苗が無期懲役の判決だったとして、彼女もこの文青児という男と殆ど年が変わらないわけだが、20年かそこらで出所するとする。
誰が脅威に感じるだろうか?自分だけは欺されないと過信する男たちの誰も、57歳になった木嶋佳苗に、練炭で殺されることなど夢にも思わないだろうし、誰も脅威に思うことはないだろう。
私は、「練炭で男を三人殺した女」が野に放たれるのと、「ナイフで人を二人も殺した男」が野に放たれるのでは、全く違うと思う。
それでも、木嶋佳苗は二度と世間に戻ってこない(特に裁判員裁判では、高裁で逆転判決が出ることはまずない)し、あの男はいつか必ず世間に戻ってくるのだ。


私は、木嶋佳苗の死刑判決が不服だということが言いたいのではない。
同じ殺人でも、殺された側の心理として、受けた痛みが量刑にきちんと反映されていない日本の裁判って、大変な違和感があるんだ、ということが言いたいのだ。
もちろん、殺害した人数はじめ、殺害態様や遺族感情、本人の反省の度合い、その他多くの要素を総合判断して、量刑というものを決めている。それでも。それでも足りない。何かが足りない。
今回あっさりと、死刑判決が出て、そのことに誰も異を唱えないことにも違和感がある。

暴論であることを承知で言うが、
自分が殺した態様と同じ態様で、死刑に処するというのが最もフェアなんだと思う。
その意味で、ハンムラビ法典というのは単純だがよくできた法典だったのだ。
それは野蛮でもあり公平でもある、実に二律背反的な、大きな矛盾を突きつけるが・・・

死刑制度の是非という問題はさておいても、
アメリカのように、懲役264年とか、犯した罪の重さだけどんどん積み上げていく量刑の方がまだ、正義を映し出してくれるような気がする。