ブログが苦手だ。
ブログだけではない。
ツイッター、フェースブック、何れも登録はするが、殆ど書かない。
mixiの日記も、今やただの角松のライブ備忘録と化している。
人様のブログというのも、滅多に見ない。
週末時間のある時に、一気にまとめて見る程度で、
コメントも、まずしない。

理由は、面倒だから・・・
と言ってしまえば身も蓋もないが、
想いを、文字にするというのは、非常に難しいものだ。
その想いや事実が、大切なものであればあるほど。
だから、ブログのコメントというのも、大切な相手であればあるほど、
簡単には書けなくなる。
よく、簡単にコメを返せる人がいるが、
あれは、どうでもいい相手にどうでもいいコメントだからこそすぐ書けるのであって、
コメントというよりは、単なる「反応」だ。
だから私も、会った事もないゲームつながりの相手に対するコメント欄には、
すぐに「おっ、いいですな」とか「良かったネ~♪」だの、
反応することはできる。

それからもう一つ、ブログの特徴として、
自分が打った文章が、言葉が、全世界に向けて発信されるということだ。
これは恐ろしい。
ブログ創生期の7年前、ある法科大学院生が、自身の合格体験記をブログに記した。
ちょっとスキャンダラスな私生活が話題を呼び、あっという間に大学院名、個人名が特定された。
当然、ブログを削除しても、内容はネット上に半永久的に晒されることになる。
その後、その法科大学院にいられなくなり、辞めたとも聞く。
友人が「ブログというものが、全世界に向けて発信されるということを考えなかったのだろうか」
とつぶやいた事を私は忘れられない。

それだけではない。
自分の書いた内容が、コメントにせよ、全世界の人とまでは言わなくとも
第三者の目に触れる。
それは、その第三者の人を傷つける内容かもしれない。
事実、それがきっかけでリアルな友人を失ったり、仲良くなった人と仲違いしたり、
そんな悲しい事件を沢山、見てきた。

ネット社会は、ことばの持つ力を強大なものにした反面、
そのことばは、恐ろしく軽く扱われ、軽く発信され、簡単に伝播する。
私は、携帯電話のヤフーニュースなんかをクリックすると、下に「みんなの意見」として
ユーザーのコメントが書いてある、あれが嫌いだ。
少年による殺人事件を報じるニュース。下へスクロールすると、
「こんな奴は死刑だな。」
これに対して「そう思う 1456人 そう思わない 37人」とかクリックしてる奴がいる。
コメントした奴。お前は「死刑」という言葉の重みを知って書いてるのか。
その殺人事件の、当事者の気持ちを少しでも考えた上で書いたのか。
というより、その殺人事件のどこまでお前は知った上で書いたのか。
まさか、ヤフーニュースだけ見て、書いたんじゃないだろうな。そうだろうな。
そんなもんだ。
殺人事件に対する「反応」を書き殴っただけなんだ。

昔、想いを言葉にするのは得意だった筈なのに、
いつしかその能力が衰え、今では「ちょっとした文章」ですら、書くのに大変な時間と労力を必要とするようになってしまった。
時々楽しませてもらっている、友人のブログや日記を見ては、その文才に感心する。心から感心する。羨ましいと思う。

そこで、このどんどん衰えつつある力をストップさせるべく、
良い案を思いついた。
最近、記憶力と記憶想起能力の衰えが加速度を付けて下降しており、
昨日見た記事・昨日感銘を受けた判例ですら、翌朝、全く思い出せなくなってしまっている。
40代からの脳トレとして、それらを、人に説明すれば記憶が定着するのだと聞いた事がある。

ならば、ブログで説明すればいいではないか。
ブログを事実の備忘録にする。
これなら、人を傷つける危険性も少ないし、
半永久的に残ろうがなんだろうが、問題ない。
どうせ読者もいないだろうし(笑)


これは、最初で最後の、自分の思いを綴った「ブログ」になるかもしれないな。