79年当時北海道で唯一民放の深夜枠で放送されていたボクシング中継はEXの「エキサイトボクシング」でした。



当時のエキサイト~のエース的存在はバンタム級の世界ランカー磯上修一選手でした。
78年にOPBF同級王者金栄植(韓国)とのノンタイトル戦に判定勝ちで世界ランカーとなり、79年1月の日本J・フェザー級王者笠原優(日東)とのノンタイトル戦は録画中継され観ることができたのですが、大激戦の末磯上選手のストップ勝ち、この勝利は海外でも評価され、リングマガジン誌ランキングのJ・フェザー級でランクされる快挙となりました。


この年は後の日本バンタム級王者石垣仁(ヨネクラ)との一戦にもストップ勝ち、一気に翌80年1月後楽園ホールでのWBC王者ピントールとのタイトルマッチが内定しましたが、不可解にも中止となり、代替カードで実現した世界J・フライ級戦金性俊ー中島成雄戦で中島選手が感動の王座奪取を果たしました。



その年の4月に改めて蔵前国技館でWBA王者ホルヘ・ルハン(パナマ)に挑戦しましたが、風邪で最悪のコンディションの上、ルハンのサミングにも苦しみ無念の9Rストップ負け。その後世界戦のチャンスは訪れず、日本タイトルは獲得するものの、精彩を欠くようになりました。


82年長年のライバル村田英次郎とのOPBFタイトルに挑戦するも、3RKO負けを喫し、83年今里光男に日本タイトルを奪われ、再戦でも敗れて40戦に及ぶ激闘のキャリアに終止符を打ちました。



全日本新人王獲得時には凄まじいばかりのストレートの切れを見せていたといわれ、フック主体のインファントを得意とし、旺盛なスタミナと連打でフィニッシュに持ち込むスタイルは即ちかなり被弾するスタイルでもありましたが、好勝負を次々と生み出してファンも多く70年代後半~80年代前半を彩った貴重なタレントの一人でした。



勝負の世界に『たられば』は禁句なのかもしれませんが78年夏の金戦がノンタイトル戦でなく、OPBFタイトル戦として行われ、次戦あたりで村田相手に防衛戦を行っていたら…

また80年1月のピントール挑戦が実現していたら、ルハンより遥かに噛み合う試合になったと思うのは自分だけでしょうか。