初春の暖かな陽射しが差し込む、午後の窓辺。やや琥珀色を帯びた陽光の中、白い筒の中をゆっくりと上下する淡いオレンジ色のラインにあわせて、行ったり来たりする黒い丸い物体。不意にオレンジのラインがその上下するスピードを速める。ヒョイヒョイと小刻みな上下運動にも、黒く丸い物体は器用に追従していく。しかし、それは長くは続かず「ずばびっ」という音と共にオレンジ色は瞬時に消え、代わりにそれを吸い込んだ場所から声がした。
「ねえ。そんなことしてて面白い?」
三清洞(サムチョンドン)から少し入った、八判洞(パルパンドン)の一角にひっそりと建つ「Cafe Rosso」の丸いテーブルに両肘をついて、尖ったアゴを両の拳で支えながら、そう尋ねたのはジェシカである。サングラスの上にかろうじて出ている眉が八の字になっている。
「・・・ん?・・・まあ、それなりにね」
消えたオレンジジュースを探すかのように、ヘの字に曲がったジェシカの口元を凝視したままの黒く丸い物体-目玉-の持ち主がボーッとつぶやく。サニーである。自分の眼の前で湯気を立ててる自家焙煎のコーヒーのカップに口をつけ、なみなみと入った黒い液体をズズズズーッとすする。
「ちょっと! やめてよ。はしたない」
ジェシカが思わずその頭を軽くはたく。ランチの時間も過ぎて店内の客はまばらではあるが、数組のカップルや観光客らしい日本人の姿もあり、そのうちの何人かがジェシカの言葉に反応して、こちらにチラリと視線をよこしていた。
「ほら、もう・・・見られてるじゃん!どうすんの、こういうとこまたネットに晒されたら」
「いまさら平気~」
相変わらず猫のように背中を丸めて、コーヒーをすするサニー。その目は虚ろだ。
「アンタほんとにどうしちゃったのよ」
心配そうに言うジェシカ。
「・・・なーんか毎日に張りあいないんだよね~」
「そのうち忙しくなるよ、アルバム準備で」
ストローをクルクル回しながらジェシカが言う。再び、その動きをサニーの黒い瞳が追いかける。
「うーむ・・・そういう類のもんじゃなくてさ…」
その目玉の動きにイラついてまた小言を言おうとしたジェシカだったが、どこからか視線を感じて辺りを見回した。人気が出てからというもの、そういう人の視線に敏感になっている。店内の客の視線ではないことを確認し、反対側の窓の外を見てのけぞるジェシカ。窓の向こうの路上で、ニンマリと右手を挙げて笑うサングラス姿は、もう一人の待ち合わせ相手、ユナであった。だが、ジェシカがのけぞったのは、その横でにこやかにほほ笑んで、同じように右手を挙げる彼女の父親を見つけたからだった。
同じ頃、全州(チョンジュ)のソドプラザ。
「・・・あのさ、さすがにやり過ぎじゃないかね、これ」
そうポロリとこぼしたのはテヨンである。実家の眼鏡店「EYEBIS」の店内に併設された自分のギャラリーで、壁一面の自分の写真を見ての一言だ。
「そうか? これでも自粛してんだけどねえ」
そう言って嬉しそうに笑うのは彼女の父だ。飾ってある写真のひとつひとつをチェックするように、ギャラリーを歩き出すテヨン。
「うわっ!こんなヘンな顔の写真まで!ちょっとカンベンしてよ~」
ネットのどこかから拾ってきたのか、ファンの撮影した会見でのスナップらしい。
「いやいや、それも可愛いよ~」
「絶対そんなはずはない!」
そんなやりとりをしていると、店のほうから接客を終えた母がやってきた。しかめっ面のテヨンとニコニコ顔の父の顔を不思議そうに交互に眺めたあと、母が言う。
「それよりテテ、あんたいつから仕事なの?」
「明後日から」
「明後日!? こないだ帰ってきたのに、もう行っちゃうのかい?」
母が心底悲しそうな顔になる。父のほうも知ってはいたものの、寂しげな表情は隠せないでいる。
「新しいアルバムの仕事なんだよ」
申し訳なさそうに言うテヨンに近づいて、その頬を両手で包みながら母が言う。
「この前の日本でのこととか、本当に肝が冷えたんだからね。ああいうのは絶対やめとくれよ」
母に言われてふと、数週間前の出来事が脳裏をよぎる。
「わかってるよ。あんなことしょっちゅうある訳じゃないから。普通の仕事だよ、普通の」
そう答えながら、頬にあてがわれた母の手の上から、そっと自分の手を重ね、優しく微笑み返すテヨンであった。
久しぶりのキャンパスは人もまばらだった。春休みのさなかで、授業開始までは少し時間があるせいだろう。学生たちよりも、教授たち関係者の姿のほうが目につく。漢江の南に位置するCAU中央大学校ソウルキャンパス。いくつかの建物の間にある広場のひとつで、2人の学生がベンチの背にもたれかかるようにして空を見上げている。場に似つかわしくないサングラス姿はスヨンとユリであった。
「は~あ・・・なんか久々のガッコだけど、さすがに人いないね‥‥」
「なんかどんどん追いてけぼりになっていきそ」
「確かに。今はなんとか凌いでるけど・・・仕事始まったら不安だわ」
背もたれに両腕を預けて、空を見上げたままボヤき続ける2人。遥か空の高みを一羽の鳥が飛んでいる。
「・・・あー、どっか旅に出たい」
ユリがつぶやく。
「アタシも~」
スヨンが足をバタバタさせながら同意する。
「旅行行くならどこ行きたい?」
スヨンに聞かれ、ユリはしばらく考え込んでから言った。
「・・・日本かな~」
その答に思わずユリの方に目をやるスヨン。
「こないだ行ったばっかじゃん!しかも、めっこり!」
「そうだけど。・・・でも今度はゆっくりあちこち回ってみたいんだよね~」
ユリの言葉を聞いてスヨンが軽く頷く。
「・・・確かに、美味しいもん食べて回りたいよね」
今度はユリがスヨンのほうにゆっくり顔を向ける。
「・・・いや、目的はそれだけじゃないんだけどさ」
「あ~~!もっかい、味鉄のしゃぶしゃぶが食べた~~い!」
ユリのツッコミなどお構いなしで、キャンパスの建物に反響するほどの大声でスヨンが絶叫した。
誰もいないと思っていた練習室に、ヒョヨンの姿を見つけたソヒョンは思わず声をあげた。
「オンニ! ここに来てたんですか? それなら言ってくれれば一緒に来たのに」
黙々と踊っていたヒョヨンが、うっすらと額に汗を浮かべて振り向く。
「だって、ひとりのほうが気が楽だもん」
その言葉にソヒョンがむぅとむくれる。
「あたし居たら邪魔ですか?」
ふくれっ面のままそう言うソヒョンを、少しの間無表情に眺めてから、おもむろにニカッと笑うヒョヨン。
「なはは。邪魔じゃないよ♪」
そう言われて安堵の表情を浮かべるソヒョンに、ヒョヨンが訊く。
「つーか、なんでココに来たの?」
スポーツバッグの中から練習用のシューズを引っ張り出しながらソヒョンが答える。
「・・・なんででしょうね・・・。学校もお休みだし・・・他にすることもなかったし」
「なんもないと、かえって困るよね」
「なんにもないわけじゃないですけど」
「・・・あ、そ」
まるで「オンニほど暇ではありません」と間接的に言われているようで、今度はヒョヨンがむっとするが、その変化にソヒョンは気付かないまま話を続ける。
「でも本とか読んでる気分でもなくって…」
シューズを履きかえるソヒョンを観察しながらヒョヨンも言う。
「アタシなんて本を読む気分になることのほうが珍しいんだけどね」
手首にはめていたゴム紐で、後ろ髪を束ねると、ソヒョンはヒョヨンの横に立ち、鏡を見ながら言った。
「わかんないですけど、カラダ動かしてるほうが落ち着くんですよね」
「それはアタシも賛成」
そう言って鏡越しにソヒョンに笑いかけるヒョヨンだった。
春を感じる陽射しとはいえ、まだ海から吹いてくる風は肌寒い。首に巻いたマフラーをそっと鼻の下まで引き上げながら、ティファニーは桟橋の先を行く大柄な背中を追いかけた。ソウルの西のはずれ、月尾島(ウォルミド)。夏には大勢の海水浴客で賑わうスポットも、この時期は観光客も少なく、仁川空港をはるか対岸に臨む岸壁には、二人の他に人の姿は見当たらない。殆どの観光客やカップルたちは、海沿いのカフェの中で身を寄せ合っているのだろう。
「今日は、ありがとうな」
不意に先を行く背中越しに声がした。波の音に乗って、低く優しく。ティファニーはただ黙って微笑んで、小さく首を左右に振った。立ち止まったその背中に、あと少しで追いつき、コートのポケットに差し込まれた腕の隙間に手が届きそうになる。伸ばしかけたティファニーの指先を、押しとどめるかのように再び声がした。
「明日、日本に行くんだ」
伸ばした手をそっと引っ込めてティファニーは訊いた。
「・・・貴恵さんのところ?」
声の主は小さく頷いて、そして振り返った。
「ようやく退院できそうなんだ。迎えに行ってやらないと」
そう言ってはにかむような、曖昧な表情で彼女を見つめるのはミンスであった。
「・・・そっか。良かったですね・・・元気になって」
うつむいたままティファニーが言う。
「ああ」
そのティファニーを見下ろしてミンスがうなづく。
「ティパ。お前の気持ちは凄く嬉しいよ・・・。でも」
「もー!何言ってるんですか!オッパ!」
ミンスの言葉を遮って、不意に顔あげるティファニー。突然の変化にミンスもキョトンとしている。
「駄目ですよ、マネージャーがタレントに惚れちゃ!」
「え?」
言いながらミンスの脇をすり抜けて、桟橋の更に先へと駆け出すティファニー。
「それこそ、こんなとこで密会してるなんてバレたら大変だ!」
明るい声で海に向かって叫ぶティファニーに、ミンスはようやく苦笑いを浮かべた。束の間の沈黙が二人の間に降り、波の音だけが風に乗って流れた。
「・・・明後日には帰ってくるんですよね?」
再び静かにティファニーが訊く。
「・・・ああ。仕事開始までには帰ってくるよ」
ミンスが応える。ティファニーが振り返って微笑んだ。
「待ってますからね、・・・マネージャーさん」
ミンスも静かに頷いてみせる。二人の頭上を、仁川空港から飛び立った飛行機が白く航跡を残しながら飛んでいく。空も海もただ青く、風までもが青く色をつけて流れるかのようだ。背後の街並みのどこかから、春を告げる鳥の鳴き声が微かに聴こえていた。
ソウル市内のとあるビルの地下駐車場。最も奥まった区画に停められた一台のセダンの中で、二人の男が会話を交わしている。一人は運転席に、もう一人は後部座席に座っているのが、どこか不自然だ、
「・・・で、どうしましょうか?」
運転席の男が様子を伺うように、バックミラー越しに背後の男に目をやりながら言う。
「日本にいるのは確かなのか?」
後部の暗がりの中から低く声がかえってきた。
「はい。ただ、詳しい場所まではまだ・・・」
「どうするんだ?」
問い詰められて運転席の男が言う。
「居所を知っていると思われる人物がいます」
「聞き出せ」
「はい。・・・ですが、少し問題が」
言い難そうに運転席の男が言う。後部座席の人物は無言のまま、その先を促した。
「・・・一般人ではないので、あまり手荒なことは難しいと」
「一般人じゃない?・・・誰なんだ、そいつは」
予想通りの質問に男は静かに答えた。
「キム・テウです。・・・ご存知ですか?」






