『私の男』
えだは-私のおとこ

(桜庭一樹:文藝春秋)


<あらすじ>

結婚式を翌日に控えた主人公・腐野花(くさりの・はな)。

物語は花が婚約者の美郎と父の淳悟と3人で会食する場面から始まる。

そして、話は一章ごとに過去へと遡ってゆく。

実の父を「私の男」と語る花とその父親の

禁忌の先にある過去へと…




直木賞受賞作。

これはヒトゴロシの物語だ。



かつてこの作者は『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』で

殺人事件に対して「やだ、世の中の歪みがこんな事件を・・・」と

言いかけたある登場人物に対し別のキャラクターに


「何か歪みだ。アホの評論家みたいなことを言うな!

子供を殺すやつなんか頭がおかしいんだ!」


と反論させている。

この『私の男』の中でも老刑事の実感として


「普通の人がふとしたきっかけで人を殺すなんて嘘だ。

普通の人はそんな時でも人を殺さない。

人殺しは特別な人種で、普段は普通の人の間に潜んでいる」


と言わせている。



つまり作者はこれまで殺人者を

ヒトゴロシ」という「アチラ側」の特殊な人種と断じ、

そうではない「こちら側」の人間の視点で物語を紡いできたのだ。

だから、これまでの作品では、

少女の殺人や子殺しといった題材を扱っていても

どこか健全な印象があった。



しかし、作者はこの『私の男』では

そのアチラ側の人間を主題として物語を紡いでいるのである。


ヒトゴロシを異物と断じる一方で、

その異質な内面を異質なものとして描く。


その取り組みがまず凄い。

読んでいて、

安易な共感も憧れも許さぬ異物としてそれは存在し続ける。



多くのヒトゴロシを題材とする小説の中で、

多くのヒトゴロシがその殺人の理由を説明されてきた。

例えば幼児期の虐待やネグレクトなどを取り上げ

ヒトゴロシをなんとか人間として掘り下げようとしてきた。


そうやって肉付けされることで同情の余地は発生する。

説明責任みたいなものは果たされるかもしれない。

しかしそれによって殺人へと至る心理描写に

説得力が与えられるわけではない。

下手すれば殺人者を悲劇のヒーローにしてしまうだけだ。


同情すべき境遇を持つ多く人の中で、

ヒトゴロシとそうでない者のボーダーを分つ“何か”。

ヒトゴロシを異質の存在たらしめている“何か”。

その“何か”に向き合っているのが本作だと思う。




全編を読み終わっても

私はこの作品の登場人物が、怖い。


その存在は、

日常の中に、それとわからない形で

まったく異質な空間がポッカリと口を開けているかのよう。



その恐怖の正体に触れたという不気味な感触が

まるで奥歯に挟まった食べ物がゆっくり腐敗するかのように、

いつまでも胸に残る。