『「いじめ」→「自殺」』

こんな望みもしない連鎖が毎日公共の電波に乗せられて僕等の目・耳・・・そして心に届く。


「いつの時代にもいじめはある」

いじめを肯定するかのような言葉をどう捉えるか。

大なり小なりいじめはあると思う。

ただそれを無くしていくべきであると思うし、

それに向けての取り組みもなさねばならない。


生徒の末端は教師である。

が、所謂「いじめ問題」を教師の責任として押し付けるのも疑問である。

昨今、学校教育問題が表立って言われているが、果たして家庭教育はなされているだろうか。

子どもは学校・家庭・地域で育てなければならない。

その「子どもの教育」を今の社会は学校に押し付けすぎである。

これはTV報道と一部の親に感じる。




いじめ。

それが成立するには、悲しいかな「いじめる者」と「いじめられる者」の2者が存在しないといけない。


某新聞社調査において、「いじめはいじめる者が悪い」と答えた被調査者(小学生)の割合は・・・

48%

半分にも満たない。


冷静に考えろ。

如何なる理由でも「いじめる者」が悪いのである。

ましてや「教師のいじめ加担事件」は論外である。


では、いじめを無くすにはどうすればよいのか。

上で「大なり小なりいじめはあると思う。」と記した以上、これには矛盾が生じるが、

自殺者を生んでいる昨今の実情は異常である。

一体どうすればいいのでしょうか。

具体的方策も示さずに論ずると説得力も無いので苦しいですが・・・。




自殺。

みなさんは「自殺容認派」ですか?

要するに、自らで命を絶つ権利があるか否か、ということである。


「手紙」(東野圭吾・文春文庫・2006)にこういう台詞がある。



「(前略)・・・人には繋がりがある。愛だったり、友情だったりするわけだ。それを無断で断ち切ることなど誰もしてはならない。だから殺人は絶対にしてはならないのだ。そういう意味では自殺もまた悪なんだ。自殺とは、自分を殺すことなんだ。たとえ自分がそれでいいと思っても、周りの者もそれを望んでいるとはかぎらない。(中略)・・・それによって残された君がどんなに苦しむかを考えなかった。・・・(後略)」



自殺をする人の心情は、何不自由なく生活している僕等にとっては理解し難い。

真の意味で理解するのはできないのではないだろうか。


ただ、『「いじめ」→「自殺」』だけで考えると、防ぐことができると思う。


それが具体的にどうすればいいのかは今のボクにはわからない。

ただ、「いつの時代にもいじめはある」のなら、“福祉”を通じて僕は何とかしたいし、

将来的に可能であると思う。


あまりにも抽象的になったので理解しがたいと思いますが、「考える」きっかけとなれば幸いです。





※本文中の「手紙」はなかなかいいです。今月3日から上映中。

家族・兄弟・友人・恋人・殺人・差別・・・今考えるべき事・・・おススメの一冊です。



映画「手紙」HP:http://www.tegami-movie.jp/