今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -89ページ目

今日という日【9月24日】

■黒いジェット機事件

1959年9月24日。

黒いジェット機事件」は、この日に神奈川県藤沢市の藤沢飛行場へ、CIAのロッキードU-2偵察機が不時着した事件。

当時、冷戦下において東側諸国への偵察任務に就いていたものの、NACA(国家航空宇宙諮問委員会)が運用する高層気象観測機とされていたロッキードU-2偵察機が藤沢飛行場へ不時着した。不時着時に藤沢飛行場では民間人がグライダーの発着訓練を行っていた。

不時着後、アメリカ軍のヘリコプターが飛来しパイロットを連れ去る。藤沢警察署が捜査に到着したが、アメリカ軍関係者らしき人物らに現場検証を制止され、不時着機の写真を撮影した人物はアメリカ人による家宅捜索を受けた。

読売新聞や産経新聞、朝日新聞などの全国紙もこの事件を一切報道せず、わずかに翌25日の朝刊で神奈川新聞が小さく報じたのみであった。その後、11月に発行された週刊少年サンデーで初めて大きく特集記事が組まれた。

なお、この件については1959年12月1日の第33回国会衆議院本会議で日本社会党の「飛鳥田 一雄」によって採り上げられ、一般に知られるようになった。マスコミにおける「黒いジェット機事件」の名称はこの時以来のもの。

9月23日の名言

運命は我らを幸福にも

不幸にもしない。

ただその種子を

我らに提供するだけである。

ミシェル・ド・モンテーニュ

今日という日【9月23日】

■上海日本人水兵狙撃事件

1936年9月23日。

上海日本人水兵狙撃事件」は、この日、中華民国上海共同租界で発生した日本人殺傷事件。

事件当時の中華民国では、中国共産党による反日宣伝活動が盛んに行われその影響が浸透し続けていた。1935年には中国共産党は抗日救国のため全国同胞に告ぐる書なる宣言を行い抗日運動の拡大が図られ親日論は影を潜めていった。また、「蒋 介石」率いる政府国民党はナチス・ドイツとの中独合作を強め最新式の武器を得るとともに軍事顧問団を招聘し軍事力を拡大していた。ドイツ軍事顧問団は日本一国に敵を絞って対日戦を行うよう提案し上海に堅固な陣地を構築。ドイツの指導は日独防共協定が締結するまで続けられた。

1935年1月21日「汕頭邦人巡査射殺事件」、7月10日「上海邦人商人射殺事件」、11月9日「中山水兵射殺事件」、1936年7月「萱生事件」、8月24日「成都事件」、9月3日「北海事件」、9月19日「漢口邦人巡査射殺事件」など数々の事件が続発し排日はテロ行為にまで激化した。

1936年9月23日午後8時20分、上海共同租界海寧路で上陸散歩中の出雲乗組員の水兵4人が呉淞路との交差点付近に差し掛かったところ、停車中のバスに隠れた支那人(中国人)4、5人によって後方から拳銃により銃撃され、田港朝光一等水兵が死亡し、八幡良胤一等水兵、出利葉義己二等水兵が重傷を負った。事件後、負傷した3人は付近の至誠同書店に運び込まれたが右胸部と左腕に貫通銃創を受けた田港水兵は書棚にすがりつこうとして床に崩れ落ちそのまま絶命した。日本上海領事館は事件後直ちに上海工部局のジェラード警視総監及び上海市政府の瑜鴻鈞秘書長に犯人の迅速逮捕と邦人保護を要請。第三艦隊は3個大隊の陸戦隊を居留民保護のために租界に緊急派遣。
9月24日、「蒋 介石」は「何 応欽」軍政部長に臨戦態勢を取るよう電令し、呉鉄城上海市長に「積極戒備」を命令した。第三艦隊司令長官から、中央に対し「成都事件」、「漢口事件」など度重なる一連の事件に対して強硬な「ジェスチャー」を示すだけでは保障は確立することはできず、これまでの対支交渉によって支那(中国)側が日本側を手ぬるいとみていることから中央においてある程度の決意を固める必要があるとした意見具申がなされた。
9月24日朝、若杉総領事は萱生事件、中山水兵射殺事件などから本事件も支那人(中国人)の犯行であると確信するにいたっており、呉上海市長に対しては上海工部局と連携し直ちに犯人逮捕と邦人保護を図るよう要請した。同日午後、若杉総領事は上海工部局を訪問しアーノルド市参事会議長、ジェラード警視総監、フェツセンデ秘書長に犯人逮捕と邦人保護を要請し、その了承を取り付けた。本事件の解決を見る前の10月には「中山水兵射殺事件」の判決が下され支那人(中国人)2人に死刑判決が下された。11月11日には「日比野洋行襲撃事件」が起きた。12月28日には先に起きた「萱生事件」の判決が中国法院で下され支那人(中国人)2人に死刑判決、5人に禁固刑が下されている。