今日という日【10月9日】
■「オペラ座の怪人」初演
1986年10月9日。
「オペラ座の怪人」は豪華な衣装や舞台装置に大金をつぎ込むメガミュージカルの先駆けとして、1986年10月9日ロンドンのウエストエンドで初演され、1988年1月26日にはニューヨークのブロードウェイでも上演がはじまり、大ヒットとなった。ロンドンでは「レ・ミゼラブル」に次ぐミュージカル史上第2位の22年、ニューヨークでは21年の史上最長ロングラン公演記録を現在も更新している。東京でも1988年の4月に劇団四季が上演を開始した。日本でも上演劇場を変えながら断続的に長期公演を行っている。
19世紀末のパリ、オペラ座(オペラ・ガルニエ)が舞台。パリのオペラ座の地下に住み、劇場関係者から恐れられている怪人と、怪人に歌手としての素質を見いだされレッスンを受けるコーラスガールのクリスティン・ダーエと、その幼なじみで新たにオペラ座の後援者となったラウル子爵の3人を巡る三角関係のストーリーが描かれる。
ルルーの原作の雑多なストーリーを刈り込み、登場人物を絞り込んで、怪奇ものでありながら怪人を中心としたラブ・ロマンスに焦点を当てている。ロイド=ウェバーによる流麗な音楽、豪華な舞台衣装や美術、鮮やかな舞台転換などが多くのファンを引きつけている。
今日という日【10月8日】
■チェ・ゲバラ逮捕
1967年10月8日。
アルゼンチン生まれの革命家で、キューバのゲリラ指導者であった「チェ・ゲバラ」がボリビアのバジェグランデ近郊イゲラ村の近くで政府軍に逮捕された。
「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られる「エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ」。「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語で、「やぁ」「オイ」「オマエ(親しみを込めた)」「ダチ」といった砕けた呼びかけである。
ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、キューバ人達が「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。
誰よりもよりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。ゲリラ軍に志願して来た農民にも、資格として読み書きが出来る成年者である事を最低限要求し、条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切った。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。
フランスの作家「レジス・ドブレ」は、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。「ジャン=ポール・サルトル」から「20世紀で最も完璧な人間」、「ジョン・レノン」には「世界で一番格好良い男」、カストロには「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評された。一方でアメリカ寄りの国々・人々の間では評価されていない。
1959年7月15日、31歳の「チェ・ゲバラ」は、キューバの使節団を引き連れ日本を訪れたこともあった。愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープ型4輪駆動車の製造ラインを見学したり、三菱重工の飛行機製作現場を訪れたり、久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し、大阪商工会議所主催のパーティーに出席していた。
大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くないことを知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後、予定を変更し、広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった「大原 博夫」と会談している。中国新聞の記者に単独取材された時には、。「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」とゲバラは言ったという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、キューバでは現在でも、初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。
日本各地を視察した後、7月27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪し9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。娘の「アレイダ・ゲバラ」も2008年5月に原爆死没者慰霊碑に訪れている。
逮捕された翌日、当時のボリビア大統領「レネ・バリエントス・オルトゥーニョ」の命令で処刑(銃殺刑)された。最期の言葉は、射殺を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」であった。39歳だった。