今日という日【3月9日】
■坂本龍馬襲撃(寺田屋事件)
1866年3月9日(慶応2年1月23日)。
「寺田屋遭難」で知られる「坂本龍馬襲撃事件」は、京での薩長同盟の会談を斡旋後に薩摩人として宿泊していた「坂本龍馬」を伏見奉行の「林肥後守忠交(はやしひごのかみただかた)」の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。
龍馬や長州の「三吉慎蔵(みよし しんぞう)」らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方百数十人に囲まれ、いち早く気付いた「お龍」は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方に踏み込まれた龍馬らは、拳銃や手槍を用いて防戦し、捕り方数名を殺傷するも、自らも手の親指(左右)を負傷。辛くも脱出して材木屋に隠れる。「三吉慎蔵」は伏見薩摩藩邸に駆け込み、救援を求めた。薩摩藩邸は川船を出し、救出された龍馬は九死に一生を得ることができた。薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を拒否し続けた。
龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。そのしばらくの間は「西郷隆盛」の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏。この「お龍」との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている。
この事件に新撰組が関わったとの説もあったが、伏見奉行が「肥後守」であったことから、たまたま同じ官位の京都守護職の「松平容保(まつだいら かたもり)」が誤認されて、それにより配下の新撰組の関与が疑われた。

1866年3月9日(慶応2年1月23日)。
「寺田屋遭難」で知られる「坂本龍馬襲撃事件」は、京での薩長同盟の会談を斡旋後に薩摩人として宿泊していた「坂本龍馬」を伏見奉行の「林肥後守忠交(はやしひごのかみただかた)」の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。
龍馬や長州の「三吉慎蔵(みよし しんぞう)」らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方百数十人に囲まれ、いち早く気付いた「お龍」は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方に踏み込まれた龍馬らは、拳銃や手槍を用いて防戦し、捕り方数名を殺傷するも、自らも手の親指(左右)を負傷。辛くも脱出して材木屋に隠れる。「三吉慎蔵」は伏見薩摩藩邸に駆け込み、救援を求めた。薩摩藩邸は川船を出し、救出された龍馬は九死に一生を得ることができた。薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を拒否し続けた。
龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。そのしばらくの間は「西郷隆盛」の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏。この「お龍」との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている。
この事件に新撰組が関わったとの説もあったが、伏見奉行が「肥後守」であったことから、たまたま同じ官位の京都守護職の「松平容保(まつだいら かたもり)」が誤認されて、それにより配下の新撰組の関与が疑われた。
3月8日の名言
人生の悲劇は、
ゴールに到達しなかったことにあるのではない。
悲劇はゴールを持たないことにある。
理想を実現できないのは不幸ではない。
実現すべき理想がないことが不幸なのだ。
星に到達できないのは恥ではない。
到達すべき星を持たないのが恥なのだ。
失敗ではなく、理想の低さが罪なのである。
ベンジャミン・メイズ
ゴールに到達しなかったことにあるのではない。
悲劇はゴールを持たないことにある。
理想を実現できないのは不幸ではない。
実現すべき理想がないことが不幸なのだ。
星に到達できないのは恥ではない。
到達すべき星を持たないのが恥なのだ。
失敗ではなく、理想の低さが罪なのである。
ベンジャミン・メイズ
今日という日【3月8日】
■忠犬ハチ公の死
1935年3月8日。
「ハチ(ハチ公)」は、飼い主が死亡した後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として知られる。東京・渋谷をはじめ、ゆかりの地には銅像があり、特に渋谷駅前の銅像は待ち合わせ場所としてもしばしば使われる。
「ハチ(ハチ公)」の飼い主は東京・渋谷に住んでいた大学教授「上野 英三郎」で、大変な愛犬家として、出かけるときには常に渋谷駅までハチを伴っていた。しかし、ハチを飼い始めた翌年の1925年、上野は急死。上野の死後、ハチは毎日渋谷駅前で故主の帰りを待ち続けたといわれ、それが新聞記事として紹介されたところ人々に感銘を与え、「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。
1934年には渋谷駅前にハチ公の銅像が設置され、その除幕式にはハチ自身も参加した。ハチは銅像設置の翌年に死亡したが、「忠犬ハチ公」の美談は語り継がれ、1937年には尋常小学校2年生の教科書にも、「恩ヲ忘レルナ」というハチ公の物語が採用された。
故主・上野が死去してから10年近く経った1935年3月8日午前6時過ぎ、ハチ公は渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口で死んでいるのを発見された。ここは渋谷駅の反対側で、ハチは普段行かない場所であった。ハチの死後、渋谷駅ではハチの告別式が盛大に行われ、人間さながらの葬儀が執り行われた。
ハチ公の銅像は大東亜戦争中に逸失したものの戦後再建され、現在に至るまで渋谷のシンボルとして、また渋谷駅前における待ち合わせの目標となって立像している。

1935年3月8日。
「ハチ(ハチ公)」は、飼い主が死亡した後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として知られる。東京・渋谷をはじめ、ゆかりの地には銅像があり、特に渋谷駅前の銅像は待ち合わせ場所としてもしばしば使われる。
「ハチ(ハチ公)」の飼い主は東京・渋谷に住んでいた大学教授「上野 英三郎」で、大変な愛犬家として、出かけるときには常に渋谷駅までハチを伴っていた。しかし、ハチを飼い始めた翌年の1925年、上野は急死。上野の死後、ハチは毎日渋谷駅前で故主の帰りを待ち続けたといわれ、それが新聞記事として紹介されたところ人々に感銘を与え、「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。
1934年には渋谷駅前にハチ公の銅像が設置され、その除幕式にはハチ自身も参加した。ハチは銅像設置の翌年に死亡したが、「忠犬ハチ公」の美談は語り継がれ、1937年には尋常小学校2年生の教科書にも、「恩ヲ忘レルナ」というハチ公の物語が採用された。
故主・上野が死去してから10年近く経った1935年3月8日午前6時過ぎ、ハチ公は渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口で死んでいるのを発見された。ここは渋谷駅の反対側で、ハチは普段行かない場所であった。ハチの死後、渋谷駅ではハチの告別式が盛大に行われ、人間さながらの葬儀が執り行われた。
ハチ公の銅像は大東亜戦争中に逸失したものの戦後再建され、現在に至るまで渋谷のシンボルとして、また渋谷駅前における待ち合わせの目標となって立像している。