8月22日の名言
俺たちの一生を台無しにするのは、
運なんて言うものじゃない。
人間なんだ。
この世の中に人間ほど凶悪な動物はいない。
狼は共食いをしないが、
人間は人間を生きながらにして丸呑みにする。
フセーヴォロド・ガルシン
運なんて言うものじゃない。
人間なんだ。
この世の中に人間ほど凶悪な動物はいない。
狼は共食いをしないが、
人間は人間を生きながらにして丸呑みにする。
フセーヴォロド・ガルシン
今日という日【8月22日】
■三船殉難事件
1945年8月22日。
「三船殉難事件」は、第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後)の1945年8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708人以上が犠牲となった事件。「三船遭難事件」とも呼ばれる。
1945年8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行った。これに対応しイギリス軍やアメリカ軍は即座に戦闘行為を停止したが、8月9日に対日参戦したソ連軍は、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻。
ソ連軍の攻撃から避難させるため、「大津 敏男」樺太庁長官は、長官命令で、婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため大泊港の小笠原丸、第二新興丸、泰東丸に分乗させ本土に引き揚げさせようとした。
三船を攻撃した潜水艦について公式には今もって「国籍不明」とされているが、当時樺太にはソ連軍が侵攻していた上、アメリカ海軍やイギリス海軍の潜水艦は日本の降伏宣言を受けて国際法に則り軍事活動を停止し、同海域において軍事活動を行っていなかったために、事件直後からソ連の潜水艦であると推測されていた。戦後、当時のソ連海軍の記録から旧ソ連太平洋艦隊第一潜水艦艦隊所属のL-19とL-12の2隻の潜水艦が留萌沖付近の海上で作戦行動に就いていた事が判明。
2007年、樺太の新聞「ソビエツキー・サハリン」の取材でサハリン州公文書館から公開された資料によると、ソ連は樺太に続き北海道北部を占領するため狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていた。
この作戦の前哨としてL-19潜水艦、L-12潜水艦の2隻は上陸予定地である留萌付近海上で偵察と護衛の任務に就いていた。この作戦行動において3隻の船を攻撃、2隻を沈没したと記録されている。作戦後、L-12潜水艦はウラジオストク軍港に帰還したが、L-19潜水艦は礼文島沖での通信を最後に行方不明となった。旧ソ連軍の公式記録では、「L-19潜水艦は1945年8月23日、宗谷海峡にて機雷により沈没、乗員は全員戦死」となっている。樺太南方沖の二丈岩付近で沈没したと思われるが、沈没の原因については第二新興丸と交戦した時の損害とも言われ判然としない。
戦後、帰還したL-12潜水艦の乗員には勲章が与えられ、行方不明となったL-19潜水艦については無視されてきたが、2005年8月にロシア太平洋艦隊による海底調査が行われ、2007年7月に行われた追悼式典において艦長以下の乗員に勲章が授与された。
しかし、停戦意思を通達した国の船舶に対しての攻撃や、白旗提示を行った船舶への攻撃を行うなど、国際法や戦時国際法への明らかな違反行為が行われたこともあり、小笠原丸、第二新興丸、泰東丸への攻撃については外務省の事実確認要請にも関わらず、ロシア政府は公式に認めていない。
1945年8月22日。
「三船殉難事件」は、第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後)の1945年8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708人以上が犠牲となった事件。「三船遭難事件」とも呼ばれる。
1945年8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行った。これに対応しイギリス軍やアメリカ軍は即座に戦闘行為を停止したが、8月9日に対日参戦したソ連軍は、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻。
ソ連軍の攻撃から避難させるため、「大津 敏男」樺太庁長官は、長官命令で、婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため大泊港の小笠原丸、第二新興丸、泰東丸に分乗させ本土に引き揚げさせようとした。
三船を攻撃した潜水艦について公式には今もって「国籍不明」とされているが、当時樺太にはソ連軍が侵攻していた上、アメリカ海軍やイギリス海軍の潜水艦は日本の降伏宣言を受けて国際法に則り軍事活動を停止し、同海域において軍事活動を行っていなかったために、事件直後からソ連の潜水艦であると推測されていた。戦後、当時のソ連海軍の記録から旧ソ連太平洋艦隊第一潜水艦艦隊所属のL-19とL-12の2隻の潜水艦が留萌沖付近の海上で作戦行動に就いていた事が判明。
2007年、樺太の新聞「ソビエツキー・サハリン」の取材でサハリン州公文書館から公開された資料によると、ソ連は樺太に続き北海道北部を占領するため狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていた。
この作戦の前哨としてL-19潜水艦、L-12潜水艦の2隻は上陸予定地である留萌付近海上で偵察と護衛の任務に就いていた。この作戦行動において3隻の船を攻撃、2隻を沈没したと記録されている。作戦後、L-12潜水艦はウラジオストク軍港に帰還したが、L-19潜水艦は礼文島沖での通信を最後に行方不明となった。旧ソ連軍の公式記録では、「L-19潜水艦は1945年8月23日、宗谷海峡にて機雷により沈没、乗員は全員戦死」となっている。樺太南方沖の二丈岩付近で沈没したと思われるが、沈没の原因については第二新興丸と交戦した時の損害とも言われ判然としない。
戦後、帰還したL-12潜水艦の乗員には勲章が与えられ、行方不明となったL-19潜水艦については無視されてきたが、2005年8月にロシア太平洋艦隊による海底調査が行われ、2007年7月に行われた追悼式典において艦長以下の乗員に勲章が授与された。
しかし、停戦意思を通達した国の船舶に対しての攻撃や、白旗提示を行った船舶への攻撃を行うなど、国際法や戦時国際法への明らかな違反行為が行われたこともあり、小笠原丸、第二新興丸、泰東丸への攻撃については外務省の事実確認要請にも関わらず、ロシア政府は公式に認めていない。