今日という日【11月21日】 | 今日は何の日?【トリビアン】で雑学王

今日という日【11月21日】

■旅順虐殺事件

1894年11月21日。

旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん)」は、日清戦争の旅順攻略の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に旅順市民も虐殺した事件。中国では「旅順大屠殺」。

1894年より朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発したが、軍備の優位など諸要因によって日本軍が戦況を有利に進めた。黄海の海戦勝利の後、10月に入るといよいよ清朝の国内に攻め入り、11月には旅順を陥落させんとした。当時遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸の威海衛とならんで 北洋海軍(李鴻章の実質私軍)の基地となっており、それに加え清朝の海上輸送ににらみをきかすためには是非とも落とさねばならない要衝であった。

旅順攻略にあたったのは、「大山 巌」率いる第二軍であった。11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、「秋山 好古」少佐の騎兵第一大隊が清軍と遭遇し、死者11人、負傷者37人を出すなど苦戦を強いられた。この戦いは後々大きな影を落とすことになる。しかし11月21日の攻撃では旅順の大部分を占拠するに至った。東洋のジブラルタルといわれた旅順の攻略は、大変な困難を極めるだろうという欧米側の予想を裏切る迅速さであった。ただ不平等条約改正を悲願とする日本は戦争冒頭よりこの戦争を「文明戦争」と呼び、清側の態度に関わりなく戦時国際法を絶対遵守することを国内外に宣伝してきたが、旅順占領後、自らこの言に背く事態を引き起こすこととなった。それがこの事件。

なお、この第二軍には幾人か著名人も参加していた。たとえば軍医として派遣された「森 鴎外」。そして事件直後には記者として「国木田 独歩」が旅順の土を踏み、生々しい爪痕を目撃している。西洋画家として著名な「浅井 忠」も新聞画家(新聞の挿絵を描く)として参加している。後に袁世凱の顧問となる「有賀 長雄」は国際法顧問として参加し、戦後この事件や日清戦争そのものの正当化活動に深く関与している。