今日という日【4月20日】
■醍醐の花見
1598年4月20日。
「醍醐の花見」は、豊臣秀吉が京都の醍醐寺において、豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1,300人を従えて盛大に催した花見の宴。
その日の輿の順も記録に残されており、1番目に北政所、2番目に淀殿、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に側室ではないものの長くつき合いのあるまつ(前田利家正室)が続いた。宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、まつがその場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主である義演・准后は、秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華美な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの「醍醐の花見」を催させたともいう。秀吉はこの約半年後に没する。
醍醐寺では、現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。

1598年4月20日。
「醍醐の花見」は、豊臣秀吉が京都の醍醐寺において、豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1,300人を従えて盛大に催した花見の宴。
その日の輿の順も記録に残されており、1番目に北政所、2番目に淀殿、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に側室ではないものの長くつき合いのあるまつ(前田利家正室)が続いた。宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、まつがその場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主である義演・准后は、秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華美な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの「醍醐の花見」を催させたともいう。秀吉はこの約半年後に没する。
醍醐寺では、現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。