こちらには国内最後の内戦となった西南戦争の経緯と戦争中屈指の激戦となった田原坂の戦いに関する史料を分かりやすく展示、体感することができます。
 明治維新後、新政府は次々と日本近代化のために必要不可欠な改革を行いましたが、その内容は身分制度の撤廃や廃刀令、徴兵制の採用など、旧士族の権利を剝奪するものが多く、旧士族は精神的にも物理的にも追い込まれていき、熊本、福岡、山口では旧士族による反乱が起きていました。
 一方、征韓論に破れ政権から離れていた西郷隆盛は鹿児島県内に私学校を開設し、不平士族を抑え、その学校を通じて、いずれ来る対外戦争に向けて備えていましたが、それに伴い徐々に県政への影響力を強めていました。このような動きを見ていた新政府は私学校が政府への反乱を企てる機関ではないか?という疑いを持ち始めます。
 そんな中、国内で唯一、鹿児島県でのみ製造されていた当時は新兵器であった薬莢を用いたライフル銃の製造機を政府は秘密裏に大阪へ搬出してしまいます。その製造機はかつて薩摩藩がいち早くオランダ商社を通じて入手していたものであり、新政府による完全集権国家になる前から薩摩藩士が搬出した資金により入手した言わば薩摩藩の財産でした。
 政府側からしてみれば、日本の一地方となった鹿児島県にその製造機があること自体が国防上の弱点となり、政府に不満を持つ旧士族の多い鹿児島県にあることが、政府側にとって脅威となっていました。
 しかし、政府側の泥棒のような強奪を知った私学校生は当然激怒し、旧士族側も国内戦への備えを始めてしまいます。
 両者の緊張が高まる中、政府側が鹿児島県に派遣していた内偵者が旧士族側に捕まってしまいます。そして、旧士族側は捕まえた内偵者を苛烈に拷問し、彼らが西郷隆盛暗殺を企てていたという自白書をとってしまいます。
 事態の悪化を危惧した西郷隆盛はすぐに旧士族側へ向かいますが、時すでに遅く、彼らの怒りは頂点に達し、遂に薩軍となり挙兵してしまいます。彼らの中には、西郷を含む代表者3人が上京し、政府側と話し合った方がいいと主張する者もいましたが、上京途中で政府側が攻撃を仕掛けてくる可能性を考慮し、とりあえず鹿児島県と熊本県の県境にある山間部までの進軍を開始します。その理由は政府側に迎え撃つ意思があれば、地形的に政府側に有利な山間部で行動を起こすであろうと考えていたからです。また、鹿児島県は海軍力に劣り、海上での移動は陸路よりも不利であると判断していました。
 そして、県境の山間部を悠々と突破できた薩軍は政府側に戦争の意思はないと判断し、更に北上、帝国陸軍が守備する熊本城に到達します。しかし、通信設備の発達した近代戦では、情報伝達が早く、政府側はすでに邀撃戦に備え、帝国陸軍を横浜から出港させており、それは薩軍挙兵後の僅か4日後のことで、小倉に駐屯していた部隊にも熊本城へ向かうよう指示を出していました。
 そして、熊本城に構える帝国陸軍が薩軍側に発砲したことで戊辰戦争以降最後の内戦である西南戦争の火蓋が切られます。
 薩軍はまず熊本城を守備する部隊に全軍をもって攻撃しますが、守備隊が粘り強い抵抗を続けたために熊本城陥落を諦めて一部部隊を残して小倉に向け北上します。道中、熊本城に向かっていた帝国陸軍と衝突しながらもなんとかそれを退けますが、ここで横浜を出港した増援部隊が博多に到着、南下を開始し、それ以降、両軍ともに一進一退の攻防が続き、交通の要所となったここ田原坂を巡り、退くに退かれぬ、越すに越されぬ激戦を繰り広げることとなりました。この戦いでは、剣術に長ける薩軍に対抗するため、腕に覚えのある兵により政府側が編成した抜刀隊が活躍した戦いでもあり、戊辰戦争では賊軍だった会津藩藩士達は、今度は官軍としてかつての敵と再び剣を交えることとなりました。
 この戦争は開国後、日本が西欧列強に追い付くため、急激な近代化を求められた自然選択の中で発生した戦争であり、日本が近代化する上で避けることのできない内戦となりました。薩軍の中には必敗の軍であることを分かって参戦した兵も多かったと思います。それでもなお、戦い進んで行った彼らは死して国体を守ろうとしたのではないでしょうか。それは政府の急激な西欧化政策が必ずやこの国の伝統と歴史、文化を破壊してしまうという危機感からくる行動であり、いずれ日本人としてのアイデンティティーを失い、魂を抜かれてしまうのではないかという恐れを感じたのだと思います。
 直接的な原因が権利のはく奪や製造機強奪だとしても、彼らは彼らなりの国を思う志がありました。
 だからこそ明治維新前の薩摩藩時代から自国のルールと伝統を重んじ、それを破った大英帝国たるイギリスと薩摩藩単独で、薩英戦争を起こしてまでその意思を貫いたのではないでしょうか。
 現在の日本では、以前の日本の文化や考え方を感じる機会は少なくなっていますが、今の日本を作るため、多くの犠牲があったこと、国内で変革を起こすことがどれほどの影響を与えることなのかを改めて感じることができる資料館だと感じました。
 下記にこの戦争後に作詞され、現在でも陸上自衛隊の分列行進曲として採用されている「抜刀隊」の1番の歌詞を記します。この歌詞は政府側からの目線で書かれていますが、敵となった薩軍を称えている部分もあり、日本人らしい歌詞ではないでしょうか。
「我は官軍、我が敵は天地入れざる朝敵ぞ、敵の大将たるものは古今無双の英雄で、これに従う兵は、ともに剽悍、決死の士、鬼神に恥じぬ勇あるも、天の許さぬ反逆を起こせし者は昔より、栄えし試しあらざるぞ、敵の滅ぶるそれまでは、進めや進め諸共に玉散る剣抜き連れて死する覚悟で進むべし」