こちらは本別町の生い立ちを実際に使用された展示物とともに解説文で分かりやすく追うことができ、現在までの繋がりを知ることができます。そして、その展示物の中には、太平洋戦争屈指の激戦地となった硫黄島の戦いにおいて戦死したオリピック馬術競技金メダリストである西竹一陸軍大佐の愛馬ウラヌスの鬣も展示されています。西大佐は、士官学校時代から当時の帝国陸軍の花形であった騎兵を志し、卒業後は、騎兵としての陸軍将校の道を歩んで行きました。その後、ロサンゼルスオリンピック出場の為、半年間軍務を離れ、修行のためにアメリカと欧州へ向かった際、イタリアで愛馬ウラヌスとの運命的な出会いを果たします。ウラヌスは体高が181cmもある大きな体のため、持ち主が乗りこなすことが出来ず、売ろうとしていたところを西大佐が購入しました。ウラヌスは性格も激しく、西大佐以外には誰も乗りこなすことができなかったそうです。

そして、ウラヌスと出場したロサンゼルスオリンピックでは馬術の障害飛越競技において見事、金メダルを獲得しました。このメダルは現在でも日本がオリンピックの馬術競技で獲得した唯一のメダルであり、アジア諸国初の快挙となりました。

その後、第一次世界大戦が終わると、世界各国の陸軍では騎兵に代わって近代的な機動部隊として戦車がその主力を担い始めていました。大日本帝国陸軍でもそれは同様であり、軍馬育成で十勝にいた西大佐も戦車連隊への転科と改編を受けました。

そして、戦車第26連隊を率いて満洲国北部の守備についていましたが、戦況の悪化に伴い、硫黄島へ向かいます。

一度目の航海では輸送船がアメリカ海軍の雷撃を受けたために沈没してしまったため、一度東京に引き返して貨物の再補充を行いました。その際に世田谷にある馬事公苑を訪れ、余生を過ごしていたウラヌスに会いに行き、そこで最後の別れとウラヌスの鬣を数本抜き、以降、西大佐は肌身離さずそれを持ち歩き、形見として硫黄島へも持参していきました。

 そして、硫黄島の戦いが始まると、アメリカ軍側からかつてのロサンゼルスオリンピック金メダリストに対して何度も投降を呼びかけられましたが、西大佐はその全てを無視し、突撃とともに壮烈な最期を迎えました。その約1週間後の3月末には、西大佐の後を追うかのようにウラヌスも病死して逝きました。

 西大佐が最期の瞬間まで持っていたウラヌスの鬣はアメリカ兵により回収されていたおり、現在では軍馬鎮魂碑のあるこちらの資料館に収められています。

 西大佐からしてみれば、愛した馬達を戦火に巻き込むことなく戦死されたことは、大佐の本望であったのではないかと、勝手ながらに思ってしまいました。硫黄島の戦いでは、西大佐の他にも水泳男子自由形で銀メダルを獲得した河内達吾も同様に戦死しています。戦争では著名なアスリートでも否応なく前線に送られて、本土防衛に命をかけ戦ったことがよくわかります。硫黄島の戦いで亡くなった多くの将兵に感謝の思いを感じるとともに、戦争の恐ろしさや悲しみがよくわかる資料館だと思いました。