太平洋戦争末期、小笠原方面の帝国陸海軍最高司令官として、硫黄島の戦いを直接指揮し戦死された栗林中将は、硫黄島を防衛した陸軍第109師団と海軍部隊を隷下に置きましたが、父島と母島からなる小笠原要塞も栗林中将の管理下にありました。
 もともと小笠原要塞(父島、母島)は帝国海軍により戦前から要塞として整備されており、栗林中将の部下達からは司令部としての機能が充実した父島要塞から指揮を取ることを勧められましたが、硫黄島が最前線となることを予想した栗林中将は、小笠原方面守備隊の最高司令官となってからすぐに硫黄島に向かい、以降そこを離れることなく戦死されました。
 ここ父島と母島の観光用ビーチやダイビングスポットには現在でも、多くの要塞跡が残っており、上陸が出来そうな海岸には必ずトーチカが設置され、奄美や柏島にも配置されていた帝国海軍の特攻兵器である震洋のレールや、雷撃を受け座礁した輸送船、海軍航空隊の滑走路跡、山側に配置された高角砲などの多くの遺構が残されており、見学することが出来ます。
 ここの戦跡遺構群は父島、母島に地上戦が無かったことと、本土に残された兵器のように、戦後の復興用スクラップとして利用するには、それらの撤去と本土への運搬コストが高かったことにより、多くがそのまま残されおり、ここまで状態の良い遺構を見られる場所は全国でも希少です。
 しかし、広島の原爆ドーム同様にここの戦跡遺構も経年劣化により朽ち続け、どんどんとその姿を変えています。 この遺構群が無くなる前に父島と母島に訪れたことで、ここを作った先人の努力と国土防衛の強い意志を感じることができ、それらを我々現代人に教えてくれているように感じました。