1943年に旧日本海軍の水上機練習場として開設し、日々パイロット達がここで猛訓を行っていました。
 また、ここでは多くの機種の水上機が運用され、現在の詫間中学校の辺りには当時、修理工場があり、日本の水上機の聖地となっていました。
 そして、大型で高い性能を誇り、米軍から空の戦艦と呼ばれ、恐れられた二式大艇もまたここから飛び立っています。
 現存する世界唯一の二式大艇は鹿児島の鹿屋航空基地史料館に実物がありますが、それもこちらから飛び立った機体です。
 1945年からは戦況の悪化に伴い、第五航空艦隊に転属となり、ウルシー環礁強襲部隊の誘導等を行っていました。
 そして、終戦間際には水上機での特攻作戦で4回の出撃も行いました。
 水上機は滑走路が不要なため、四方を海に囲まれた島国である日本では重要視され、水上機の性能も世界トップクラスでしたが、あくまでそれは水上機の中での話しであり、フロートがついている分、一般的な航空機との戦闘には不利でした。
水上機としての本来の用途(海上偵察等)でなら高い性能を誇っていますが、空力的に不利な中、特攻機としてどれほどの戦果が挙げられるでしょうか?ここから飛び立っていったパイロット達を思うと胸が痛みます。
 現在では学校や工場が建てられ、当時の構造物が見られるのは防空壕と海岸にあるコンクリート製の滑走帯だけです。
 滑走帯は1番東側が小型機用でその他西側の3箇所が大型機用のものです。