
久枝神社
こんにちは、よっこん日記のよっこんです。
今回は、平安時代に起こった『藤原純友の乱』の藤原純友(ふじわらの すみとも)に関する史跡や、万葉集の和歌で詠まれた地名の石碑もある、久枝神社(ひさえだじんじゃ)を紹介します。
久枝神社
愛媛県松山市古三津町1257
(伊予鉄 山西駅から東へ600m、徒歩6分)
趣きのある神社名が刻まれた石碑
久枝神社の由緒
〔由緒〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
建武年間(1334~1336年)、河野通盛が高縄山を背にした広大な河野郷を去って、本拠を道後湯築城に移した頃。此の地は河野家の武将、久枝肥前守宣盛の所領であった。
往古、古三津村に住吉神社(大明神地区)、祇園社(南条地区)、岩崎八幡神社(東山地区)がそれぞれ鎮座し、地元住民の尊崇篤いものがあった。
明治3年に嚴島神社へ一旦合祀の後、明治12年7月に村民の要望により現在地に奉遷し、社名を久枝神社と称し奉る。
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拝殿
拝殿内部
祇園社の扁額はありません。
いくつかの絵馬が掛けられています。
明治31年戊戌(つちのえいぬ)3月。色落ちしており、何の絵馬か分かりません。
〔御祭神〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
足仲彦命(たらしなかひこのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
誉田別命(ほんだわけのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)
表筒男命(うはつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
底筒男命(そこつつのおのみこと)
〔神社御神徳〕
農業の神、疫病退散、家内安全
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本殿
本殿すぐ横の脇に、古いお社がありました。
この地域一帯が、藤原純友公と縁が深く、境内や近隣に数々の遺跡が遺されています。
また、境内には地域の偉人をお祀りした岡田十五郎神社も鎮座しています。(久枝神社に向かって右奥)
貴族海賊 藤原純友
藤原純友公に関する遺跡の説明
〔藤原純友(ふじわらの すみとも)〕~~
平安時代中期の武将(893~941年)
貴族政治の腐敗と庶民生活への圧迫に抗して政治の改革を目指し立ち上がった、時代の先駆者であった。
出生地、故郷は現在まで不明だが、伊予国だという説が最も有力である。関東で平将門(たいらの まさかど)が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして、天慶2年(939)に瀬戸内の海賊を率いて乱を起こした。
この2つの乱を合わせて、承平・天慶(じょうへいてんぎょう)の乱と呼ばれる。
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藤原純友の駒立石
純友が駒(うま)を立て、沖を見たと伝えられている岩。この駒立岩は、現在地より西北30mの田の中にあったが、土地造成中に埋没されていたのを有志の努力で掘り出され、昭和51年3月に、この地へ移し復元されたものである。
純友が使った井戸跡
久枝神社境内にあり、純友が使用されたと伝えられている井戸。
石枠は今もその名残をとどめている。
藤原純友駒つなぎの松跡
藤原純友が駒(うま)をつないだ松があった場所に建てられた石碑。
万葉集で歌われた熟田津(にきたつ)
万葉の歌碑
熟田津尓舩乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜
(熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな)
『万葉集』(巻第一)、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌である。
〔現代語訳〕
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。
〔説明石碑〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わが古里、古三津は、万葉集の熟田津(にきたつ)の里ではないかと、江戸時代から唱える学者もあるように、古くから拓けたところである。
この由緒ある故郷を愛し、誇りを持って、新しい郷土のしあわせづくりに努めよう。
(平成6年10月 三津土地改良区)
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〔熟田津(にきたつ)〕~~~~~~~~~~~~
熟田津(にきたつ)とは地名のことです。正確にどこなのかはわかっていませんが、航路の途中の、愛媛県の松山あたりなのではないかと言われています。
この歌は、友好関係にあった百済(現在の韓国の一部)が滅ぼされたため、飛鳥時代の斉明7年(661)1月6日に斉明天皇(さいめいてんのう)が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と共に百済再興のため出兵しようと筑紫に向けて船出しました。
その航路の途中で、四国の松山あたりの海に停泊し、しばらく滞在しました(一説には2ヵ月程)。その間に温泉で保養をしつつ、周辺諸国の地方豪族軍を結集し、渡海の準備を行ったとされます。
(この温泉は、道後温泉ではなく熟田津石湯。道後温泉は天平18年(746)にできているので、年代的に後になる。また、熟田津石湯は天平17年(745)の大地震で山岳が崩れて荒廃したという。)
再出発の宴において、額田王(ぬかたのおおきみ)が斉明天皇の気持ちを詠んだものが、この歌です。数多くの歌が入っている万葉集の中でも、初期の傑作という呼び声の高い歌です。
額田王は王とついていますが女性です。また、斉明天皇も女性天皇です。
この歌が詠まれたのは、「白村江(はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる戦いの時期です。
この戦いは朝鮮半島で当時勢力を持っていた国々の争いです。この時代の朝鮮半島には高句麗、百済、新羅の3カ国がありました。当時の百済は日本(倭国)と関係が深く、この戦いのために日本からわざわざ出兵をしました。熟田津で旅の疲れを癒して、「さぁ出発だ!」というときに詠まれたのがこの歌です。
またこの歌は、航海の無事のために霊的自然を理想的に描き出す呪的な表現でもあるようです。「月や潮」で、天皇を含む一行が天に祝福され、整った自然条件の中で、人の意思「漕ぎ出でな」は、天の意図に添った形で一連の自然な流れを形作っています。
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「熟田津の図」の絵馬
額田王が詠んだ、熟田津の歌も、絵馬の左下に書いてあります。
(平成10年戊寅(つちのえとら)10月)
さて、今回は万葉集に詠まれた熟田津(にきたつ)や藤原純友に関する遺跡が残る、久枝神社を紹介してきました。
大きな神社ではないですが、地域の人たちに大切にされている、歴史のある神社であると感じました。
「にきたつ(にぎたつ)」の由来も知ることができて、とても勉強になりました。
「藤原純友の館跡」も、この近くにあるので、その内容は次回のブログで紹介します。
それでは、良い一日を。
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