神との出会い、アラスカ

神との出会い、アラスカ

アラスカに移り住んで、ぼくの人生は180度変わった。なぜかというと、ぼくはここで神と出会ったからだ。

アラスカ 〜第二の修学旅行〜


 二年前の秋、高校の同級生たちが第二の修学旅行と銘打って、男女合わせて五名ほどアラスカに遊びに来てくれた。海外旅行は初めてだという者や、もう何度も世界を旅して回っているという強者もいたが、みんなアラスカは初めての土地だった。


 一週間という限られた時間のなかで、どうすればみんなに喜んでもらえるだろう――考えれば考えるほどアラスカの大きさが逆に疎ましくなった。ぼくのお気に入りの場所はアラスカのあちこちにある。できたらそのどれもを見て欲しいと願っているが、日本の国土の四倍もある土地のすべてを訪れることなど到底出来るはずもない。暫く頭を抱え込んでしまった。


 そうこうするうちに、すでに亡くなった古い友人の言った言葉を思い出した。それはとてもシンプルなひと言で、アラスカの魅力を最大限に引き出す方法だった。友人はこう言ったのだ。


「アラスカに来てホテルで夜を過ごすことほど淋しいものはないと思う」


 そのひと言を思い出したおかげで、行く先は即座に決まった。そこは『デナリ国立公園』。時期は秋口をおいて他にない。


「紅葉でツンドラの大地が真っ赤に燃えた風景をみんなに見せてやりたい。テントを張り、焚き火をし、一晩中語り合いながら、晴れていればオーロラをも見せてあげられるだろう。


 ぼくはさっそく旧友たちに打診をした。きっと喜んでくれるに違いない。そう端から信じて……しかし、折り返し届いた返事は「躊躇」という文字だった。キャンプの経験などない、寒くはないのか、野生動物などに襲われる心配はないか、トイレはちゃんとあるのか、などなど心配と質問が山のように届いた。


 夜はホテルに泊まりながらアラスカを観光して回るとばかり思っていた友人たちは、ぼくの提案に心底驚いたらしい。長年アラスカに住む者にとっては何でもない事でも、日本に住む人たちにとってはアラスカでキャンプをするということは大変な冒険に映るのだ。


 しかしぼくのこの提案は思いの外刺激になったらしく、みんなは本腰を上げてアラスカに臨むことになった。ウォシュレットがないところは嫌だといった女性はこの時点で脱落したが、残りの連中は不安を抱きながらもアラスカへとやってきた。


 長い年月が経っていた。それぞれがそれぞれの人生を歩み、そしていまに至っている。積もり積もった話は山とあるはずなのに、しかし開いた口から出る話題はごく僅かだった。移動のときも、目的地に着いたときも、みんなほとんど無言なのだ。車窓にひろがる広大な景色に圧倒されたまま、またテントを設営する場所に漂う森や土の匂いに幼い昔を思い返すように、一人ひとりが何かにじっと浸っているようだった。


 それでもワンダーレイクまでの道のりは、みんなの心を開放したようだ。フカフカの絨毯を思わせる苔むしたツンドラを歓声を上げながら歩き、熟したブルーベリーの実を時間も忘れてついばんだ。突然のグリズリーの出現に肝をつぶし、またすばしっこいホッキョクジリスを追いかけながら子供のようにはしゃぎ回った。


 夜はキャンプファイヤーを囲み、火のはぜる音を聞きながら、沈黙と短い会話が交互に続いた。それなりに身につけたであろう人生観を披瀝する者もいない。ただ火を囲んで傍に佇むだけで、それぞれが満ち足りたものを感じていた。


 森の切れ間から覗く夜空には満天の星が煌めいている。オーロラがいつ出てもおかしくない夜だ。近くにムースかクマでもいるのか、ときたまゆるやかに吹き抜ける風に獣の匂いが感じとれる。遠くの空からカナダヅルの合唱も聞こえてくる。初雪が迫っているのだろう、南への渡りがはじまったのだ。


 ぼくたちはたぶん、短い会話を通して互いの人生を労っていたのだと思う。高校を卒業して何十年も経っているというのに、傍にいるとそんな時間の流れなどなかったような気さえしてきた。何の気負いも猛りもなく、ただ淡々と過ごすその空間と時間は濃密で、いっさいの説明が不要なことはその場の全員が感じ取っていた。


 気温が急に下がってきた。夜の帳のなかで外気が急速に冷えていく。そろそろ寝袋に潜り込もうということになったそのとき、星空がうっすらと霞がかってきた。


「オーロラだ!」


 ぼくは小さく叫んだ。


 みんなは夜空とぼくを交互に見ながらきょとんとしている。一人が言った。


「あれ、オーロラなの? 雲じゃないの?」


「うん、オーロラだよ。これからどんどん強くなるからもっとはっきり見えるようになる。もう少し広いところに行ってみようか、おっきいのが見えるから」


 森が大きく開けたところに移ると、満天の星が降ってきた。その星空を透かして、緑がかった光の帯がたおやかにうねりはじめている。


「うわー、あれがオーロラなんだ!」


 みんなは雷にでも打たれたかのように棒立ちになって夜空を見上げている。


 オーロラは次第にその動きと光度を増し、全天を覆いはじめた。一人、二人、そして全員がテントに向かって走り帰った。オーロラを写真に撮る準備はしてきたのだという。でも実際は、そんな機会が訪れるなんてまったく期待してなかったらしい。


 慌ただしく三脚を立て、レリースを装着すると、ああでもないこうでもないと言いながら撮影をはじめた。さっきまで寒いさむいと言っていた連中が、大はしゃぎなのだ。オーロラが動くたびに三脚の位置を変え、暗闇のなかを走り回っている。


 そんな彼らを眺めながら、わずか一週間の滞在が、彼らに何かをもたらしてくれるだろうかとぼくは考えていた。大きな自然のなかに身を置き、硬い地面に寝て、朝晩の寒さに震えている彼らは、日本にいたらオブラートに包まれたような生活をしているのだ。


 そんな生活をしながらも、ある種の疲れと物足りなさを人生に感じてしまう年齢にいま達している。一人ひとりが歩んできた人生、いま背負っている重荷は、決して軽いものではないだろう。むしろ苔のようにはりついてしまって、どう拭い取ればいいのか途方にさえ暮れているかもしれない。


 オーロラにはしゃぐ彼らを見ながら、自分の人生の持ち時間を無意識に認めはじめた潜在的な力が、今回、彼らをこのアラスカに運んできたのかもしれないと思えてきた。たった一週間という短い滞在は、彼らが期待していた結果と程遠いものかもしれないが、それでもここで共に過ごした時間は確実に存在するのだ。そしてその事実こそが最後に意味を持ち、かけがいのないこれからの人生の歩みを確かなものにしてくれるはずだ。


 朝までオーロラを撮り続けたいという子供のような駄々をこねる彼らを寝袋に押しこむのは大変だったが、テントのジッパーを閉める頃にはオーロラもその輝きを失い消え入る寸前だった。


 人生には転機というものがある。それは決して稀有なことではなく、むしろ往々にしてあることだ。


 帰国後、それぞれみんなから丁寧な礼状が届いた。そのときに知ったのだが、それぞれが人生の転機に差し掛かり悩みの途中にあるということだった。そして、今回の旅行で、自分のなかの何かが変わったような気がすると、アラスカの大地に触れた感想が書かれてあった。


 簡単ではない人生の歩みのなかで、一歩前に進むことは、ときとして至難の業に思えることがある。しかし、一歩進んだあとに振り返ってみると、なぜこんな簡単な一歩がこれまで踏み出せなかったのだろうかと気づくことのほうが多いこともあるのだ。


 慌ただしい日常の時間とは別に、彼らが過ごしたアラスカにはまた別の時間の流れがあることに気がついてくれたことに、ぼくはとても喜ばしいものを感じた。彼らの見たアラスカが、これからも彼らのなかでずっと留まって欲しいと、思わず祈ってしまった。