介助や支援 | 娘とおかあちゃん。(かしこくなりたい)

娘とおかあちゃん。(かしこくなりたい)

いくつになっても世の中には、分からない事がいっぱい。
もがきながらもシンプルで賢く生きていきたい。
シンプルとはほど遠い頭の中を書いています。
障害者区分5の18歳の娘です。

昨日は、娘が生活介護1に行った後、車にゴミを積み込み、ごみ処理施設に行った。ブックオフに引き取ってもらおうと思っていた物のスペースがないぐらいゴミを持って行った。

じわじわと片付いていく。このじわじわペースでいつまでかかるのやら。

 

昨日は娘を迎えに行った。私の通院があり、娘が帰ってくる時間に家にいることが出来ないので、迎えに行って一緒に病院に行った。

 

お迎えに行った時、靴箱から靴を出し履き替えるところだった。乱雑に靴を出したのか、履き替える靴が少しバラバラになっていた。すると、支援員さんが揃えてくれていた。親切なんだろうと思う。履きやすいようにして下さったんだと思う。でも、申し訳ないが、必要ない。履きにくければ、次からは気を付けて揃えようと思う。まして娘は揃えてもらったことに気付いていない。だから適当に靴を出しても困ってないから次も適当に靴を出すだろう。学校では、一切手を貸さずに靴を履き替えてきた。適当に靴箱に入れてしまえば、次に履くときに自分の靴を探さないといけない。だから娘は自分の靴箱を認識し自分の靴箱に靴を入れるようになった。適当に靴を出すと、バラバラに飛んでった靴を履かないといけない。これも娘にとって面倒くさく、揃えて足元に靴を置くようになった。本人が困って自分でどうしたらいいか考えるから出来るようになってきた。自分で、試行錯誤して自分のわかり方にあったやり方を自分で見つけてきた。

支援や介助とお世話は同じではない。

障害があっても本人が出来る可能性のある事は、本人が最初から最後まで完結できるように、手助けしないで欲しい。支援員さんには申し訳ないが、それが本音だ。機能的に出来ない事は、介助や支援が必要だと思う。でも、出来る事をやってあげるのは、支援や介助だとは思えない。人間誰だって楽な方を選びがちだ。やってもらうことが当然になってしまったら、次へのステップがなくなる。誰かがいないと出来ないになってしまえば、それは出来ていないと同じだ。自分から出来ない所をお願いしてやってもらうのとは全く違う。受動的なのか、能動的なのか、同じように見える事柄でも過程が全く異なる。

 

生活介護1にはAさんがいるので、徐々にAさんの考え方が他のスタッフさんにも広がればいいなと思う。

 

私の病院に付き合ってくれて娘。娘は何をされるのかわからないから病院は好きではない。お母ちゃんの病院だからと何度も伝えたが、いざ診察室に入ると嫌がり始めた。座って待つように勧めたけど、座ると何かされると思ったのか立ったままだった。でも私の診察が始まると、何もなかったかのように椅子に座っていた。場所を移動して採血するときも同じように嫌がった。でも自分じゃないと気付くと看護師さんに遊んでもらっていた。

状況を理解しようとする力がついてきたように思う。

状況を理解して、自分の気持ちをコントロールできるようになっていっていることは、娘にとって成長だ。

 

今日も生活介護1に行った。お迎えに来てくれる方は、娘が車に自分で乗り込むまで、待ってくれるようになった。だから納得して行けていると思う。私は、薬局に行って、図書館に行って、スーパーに行って、銀行に行って帰ってきた。こうやって書いておかないと、あまりにも単調な毎日で、昨日の事さえ忘れてしまう。思い出せない時、不安になるので、書いている。

掃除をして、夏用のカーペットに変えて、ストーブをしまって扇風機を出した。15時からの1時間は本を読んだりする時間にしようとしている。なんか用事をしていて、いつも30分くらいになってしまうけど。

 

今日も娘はご機嫌で帰ってきた。19時からお布団に入った。

少し物音がしていたけど、しばらくして寝たようだ。途中で起きてこなければいいけど。