もやもやしていて
積み上げていた
英語学習も、そのほかの勉強も
何だかもやもやしてきて
立ち止まってみた
自分を内観してみた。
もやもやしてる原因は
自分の理想から
自分を縛り付けている
というものだった。
自分が発する言葉一つ
行う行動
全てに自分の理想があり
理想を叶えられない自分に対して
受け入れられない自分がいるということ
こうでなくてはいけない
自分に囚われている事
自分を好きになりたいとか
気楽に生きたいとか
嫌な気持ちを避けたいとか
常に
こうありたい自分に
自分がなるように
自分で自分を見張っていて
常に自分が
自分にジャッジを下し
正しさを求めて
自分が苦しくなってた
そして、この苦しみを
解放できる方法のは
そのジャッジを下してた自分さえも
受け入れる事
汚い自分醜い自分を
ダメな自分を信じてあげることかな
と
汚さ、醜さ、、ダメさ
そんなら自分でも信じる事
汚いんだけど、醜いんだけど
それも自分だし、
理想はあるんだけど
そんな理想の自分でいられない
理想を捨てたい時もあるし
ダメさも愚かさもあることを認めないといけない
久しぶりに
そんな自分に気づけた。
私は自分に対しての理想が高かった。
ダメなことではないけど
それに疲れてきたから
その荷物をもやもやしてる間は
下ろしてあげて
力が戻ってきたら
また、自分の好きな、理想に
突き進めばいい
日常は、大切で
だからこそ、今は休もう
ダラダラとしよう
ダメさをたくさん出して
右往左往してとことん嫌になって
嫌気がさしてくるかもしれないけど
理想から離れてみよう
欲がない
39歳にして
物欲も、食欲も承認欲求も
人一倍なくなっていると感じる
もちろん男女の関わりも
20代の自分からしたら
こんなに欲がなくなるとは
想像もつかなかった
ほしいものがわからなくて
欲しがることもなく
誰かを羨むこともない
これがニヒリズムなのかと
思うことがある
けれど
何かに感動はするし
感情は高まったりはする
新しいことを学ぶことは面白いし
新しい発見は面白い
自分に対して起きる残酷な出来事も
一瞬や一時期は辛く
ああ、このパターンか…と
受け取ることもあるけど
長引かず、ある程度の時をもらえたら
そんなこともあったなぁと
解消してしまう
これが幸せなのかと問われると
幸せだと即答もできる
それで何がいいの?と問われても
自分はいいと思える
こんな状況に
こんな環境にいることも
ありがたく感謝も感じる
自分以外の人に
謙虚な気持ちにもなる
夫や子ども周りに関わってくれる人
有難いと思える
しかし
躍動感はない
こんな悟り自分を
何だろうと感じる自分がいる
最近
穏やかに平穏に暮らしている
何かを外に求めることが
あまりなくなった
情報を見ると
劣等感で溢れている気がする
誰かの曖昧な
軽率なやりとりに
誰かが正義を主張して
誰が決めたか知らない
正義を振りかざす人だらけになって
正しさばかりを求める
劣等感というものが
正義という名の形に代わり
仲間を集め
誰かを攻撃している
今、何かを主張することは
誰かに劣等感を植え付けることと
同じくらい
過剰な反応をそれぞれが見せ
本当はどこに向かいたいのか?
を見失ってる
正解を決めて
正義を振りかざしたら
何かが解決されるのかな?
正解がないのに
正義が振りかざされるから
正義という刃が
表に出る人を
苦しめる
snsからは
悲惨な音が聞こえる
そこから離れて
自分の幸せと向き合っていること
幸せの自覚を味わいたい
自分が日本という国で産まれて
今日食べるご飯があって
こうしてスマホで情報が見れる
明日の天気予報をみて
洋服を選べること
当たり前のような暮らしに
有難いを感じられることが
とても平穏で心地が良い
若い頃、悪意を持って私の生活を
メチャクチャにしてきた相手を
あるホームページで見つけた
今の時代
その相手にいくらでも
報復することはできる
けれど
その人が生きてる限り
その時代にした悪意を
今も許せないなんて
私自身がどれだけ今悲惨な
思いをしているのかを
表現しているのと同じだと思う
今私は幸せで平穏で心地が良いのだから
たとえ過去死にたいくらい
辛い思いをしたし
苦しんだけれど
今は、攻撃したいとも思わない
相手を貶めたり破滅させることは
このスマホひとつで
親指ひとつで簡単にできる
あの時
嫌なことをされた
辛かった
苦しかった
悲しかった
けれど時は流れて
全ては変化してて
その人がたとえ今幸せであっても
不幸であっても
私はどうなのか
だけなのだ
過去の過ちが
今の時代snsや情報社会によって
取り返しのつかないことになって
しまう傾向がある
若気の至り
過去の過ちすら
時がたっても色褪せようともせずに
より濃い色に染め直されて
出現させられてる
こんなんで
誰が幸せを感じられるのだろう。
なんのために生きてるんだろう
私は自分の今の幸せと向き合い
今の幸せを味わう
きゅうりとトマトを切っただけで感じた幸せ
夫出張中の
慌しい夕ご飯の準備
学校からの電話
子どもの父母会の電話
会社からの電話のや各種 手続き
慌しくきゅうりとトマトを切って
子たちに出した
切りながら
子どもたちが
この2品が好きだから
きっと喜ぶだろうなと思って
夕ご飯のおかずにプラスアルファつけた野菜
夫のいない夕ご飯
私一人でも
十分幸せを感じれる事を
実感できた
何かを与える人がいること
喜ぶだろうなと思える人がいること
とても贅沢な時間に感じた
結婚生活はこんな気持ちが
私にとってベスト
お互い一人の時も十分な幸せを感じられること
そして、二人でいる時は
さらに幸せと感じられるような
夫に依存してない自分を認識して
とても生き易い
運命を受け入れる
40歳
思えば、次男出産から
病気を多く経験する日々が続いた。
32歳くらいから、やっと自分で
色々と考えられるようになって
自分の足で自己を確立していこうと思い描いて
今まで閉ざしていたことを
色々チャレンジするようになった
そこから
8年間くらい
ずっと
病院との行ったり来たり
子宮からの大量出血
帝王切開
脳腫瘍摘出
今度は副腎腫瘍の手術を
受けることになった
健康はお金では買えない
遺伝子に組み込まれてる
変えようのないシステムである
そうゆう結論に至ってるのは
結果と原因の法則とかの
思想に染まり自分を責めるのを
放棄したから
アドラーの目的論も
私に何ができるのかな
正直とても怖い
今の現状を保たないと
わかることはとても怖い
副腎を、摘出して
私の今が無くなることが
新しい未来を想像するのが怖い
まだ、わからない
どうなるかわからない
希望を持つことを
あまり期待しすぎるのも怖い
受けいれ
そんな自分の人生を
重要し
今への執着を捨てる道の
選択肢こそが
私を苦しめないことなのだろうとは
思う
健康に執着していたら
今に執着していたら
私は苦しむ
私が幸せを感じるにも
希望を持つにも
一番の選択肢は
捨てる事なのだということは
承知できた。
いずれは、全てが無くなる
いざとなれば全てを捨てる
それが私が幸福を感じ
余生をすごさ生き方
タイミングをみて
リセットしながら
新たな自分を構築してく
病気を得た私は
そう生きる
落ち込む
苦しい
けど、しょうがない
受け入れる
それが自分の身体だから
受け入れて
新たに生きていくだけ
何者にはなれない
自分は何者かになれるのでないかと
いつしか思うようになった30代
何者になれないと思っていた20代
40代を目前にして
何者にもなる必要はない
という変化がきた
いつも楽な方へと
無意識に進んでいて
学ぶことは好きだけど
学び切ることは
していなかった気がする
学んで
流されて
立ち止まって
同調して
やはり変化して
真実とかを
言いたいわけではないし
たった一つの
安定を見つけたいという
わけでもないけど
その時その時感じる
自分の正義と向き合いながら
戦いながら
自分の変化を
感じながら
では、どうしたいの?
何がしたいの?
という問いをいつも持つ
今しかできないことは
どの年齢にもあって
20.30代では感じられなかった
体の変化も感じる
だからこそ
子どもから学べることと
今の私だから学べることを
今しかできないことを
見つけ出して
行動してきたい
優しい日々
貧血が辛いと言ったら
夫が子どもたちを連れて
雨の中買い物に行ってくれた
新しい仕事は
世間体がとても良くて
しかも自分の好きなことができて
お金がもらえる
みんな健康
私に取って
贅沢すぎるくらいの
ご褒美ばかり
人生の曲線みたいなものを
最近本で学んで
橘玲さんの本かな
人生の攻略みたいな本
確かに
私は幼い頃から温かな家庭で
育ったわけではなくて
父親には殴られたし
裸足で玄関に立たされた事もあったし
夫婦は仲悪かったし
貧乏だったし
マイナススタートだったからこそ
今は少しずつ階段を上がって
比較したらとても素敵な
光栄な環境
橘玲さんは
人の幸せが続かないのは
その状態には
慣れが来るからだと
分析してた
私も最近ふと頭に浮かぶ言葉があり
安定というのは幻
変化がないということはない
辛い事や苦しみはある
そう考えて
初めから存在するという前提を
感じながら生きていくと
なんでこんな目に遭わなければいけないのだ
という思いがなくなり
こうゆうことが人生なのだ
と思えてくる
この幸せが、ずっと続きますように…
ではなくて
この幸せを感じれる時が
とても幸せだ
と一瞬一瞬を切り取って
感じてみるだけでいい
と思える
不安は本能的に感じてしまうのは
仕方ないけど
不安を抱えながら生きるというよりは
不安になってもしょうがないよね
と不安に降参しながら
生きてる
今日は私にとって優しい日になった。
ただこの一瞬だけど
残酷と絶望感
自分が40にもなろうとしてる時
残酷と絶望感を感じている
自分が自分たらしめるもの
という言葉に反応して
自分がコツコツと積み上げてきたものは
いったいなんなのだろうか
と思えるくらい
無に感じているから
50歳から
伊能忠敬が歩いたことを
思えば
私が感じている絶望感や
焦燥感は甘えや逃げなのかもしれない
今からでも
いつでも
自分は変化出来るとは思いながらも
今までの時を
自分が得ているものを
何もなく感じてしまう
もう少し自分を見つめられたら
今なぜこんなにも
絶望しているのかは
見えてきそう
いつでも幸福の真ん中にいようとする自分は
あらゆる言い訳や
あらゆる挑戦を避けて
無理やり
幸福の真ん中にいようとしているような
感覚がある
無理やりそこが
幸福なんだよと
納得させようとするから
本当は納得できていない自分が
絶望感や焦燥感を
掘り出してくれてるような
感覚がある
ありがたさや
感謝を感じれなくなる自分は
嫌だけれど
それとはまた別に
自分の中の
やりたい、こうなりたい
殺してしまう自分を
もっともっとときめかせても
いいんだろうと思う
SNSアプリを消してみた
順調にコツコツ学んでる
英語学習
英語アプリをトップ画面にして。
FacebookとTwitter
TikTok、Instagramアプリを消して
スマホの画面を
結構シンプルにしてみた。
一日がめちゃ充実する
何となく見ていたものをやめると
今を生きてる間がすごい
英語学習が集中して進んで
作業になってた
家事とか子どもと公園に行く時間が
本気の気分転換になって
全てが
とても都合が良く充実してる
幸福感が、増えた
SNSは一概に良くないとは
言わないけど
打算的な習慣化されることが
自分にとってはデメリットになっていたのだと
気づく
このまま学習に躍進できるように
日々学習を積み上げたい
病んでいるのか私そのものなのか
外界で誰かに会うのがとても億劫で
繋がり合うことを
拒絶しているのだけど
誰かに会って
この状態から抜け出したくて
けど
会ったところで
孤独は変わらない
これは
病気特有の症状なのか
私の病気は
鬱に陥る人は多いとされてるけど
ここに関わってくるのか
単にセロトニンが出なくなってるのか…。
原因を追求したところで
答えは出ないのだろうけど
苦しみが
なんなのかわからないけど
ひとつひとつの
優しさに
救われたり
突き落とされたり
面倒なメンタル
子供の仕草や言葉
ひとつひとつで
とても救われる
今の私を救ってくれてるのは
子どもであり
私は子どもの身の回り
のことをして成長を手伝っているようで
本当は、私を成長させてくれているのだと
今の私を救ってくれているのだと思う
今しか見れない
子どもの成長を
じっくりと味わせてもらえる
本当は貴重な今なのだと
気付かされる
愛おしいなと
心は孤独で病んでるのかもしれないけど
愛おしさで触れる時間が
少しでもあるから
私は折れずにいられてるのではないかと思う
宝物
