自分の心を祈る話

 

 ある教会員さんの教会に入る前の若かった頃の話。その方は設計事務所の営業の仕事をしていた。ところが上司が彼のことを目の敵のようにいじめるのである。お客さんの前で「お前が専門用語を使うのは10年早い。」などと恥をかかせるようなことを言う。あいさつをしても無視される。班長に相談すると、「その方の幸せを祈りなさい。」という御教えを言われるが、わかってはいるがどうしても祈れない。

 なぜ自分ばかりにつらく当たるのだろう。毎日のことなので、会社に行くのもつらい。それで、本部の幹部の相談員さんに相談をした。

 すると、その方は「そうだよなあ。祈れないよなあ。」と言ってくださり、「でも祈れない自分の心は汚れている。決していい状態とは言えないので、その方の幸せを祈れる心になれるように、自分の心を祈ってみたら。」と言われた。なるほどと思い、それからは会社で何を言われても、ひたすら自分の心をお祈りするようにした。「この方の幸せを祈れますように。」とお祈りをした。すると一週間もするうちにお祈りが身について来たのか、相手が何を言っても気にならなくなって来た。

 その頃に相手の状況もわかった来たのである。その会社は二つの会社が最近になって合併した所で、多くの人がその時首になったが、上司はどうしても首にできずに残ったのである。しかも給料が半分になり、その会社でも家でも居場所がなかったのである。しかし若い彼は社長のお気に入りで、社長とはツーカーの仲だった。

 上司はそれで彼のことを憎く思い、いじめていたのである。

 

 事情がわかると上司のこともかわいそうになり、彼の幸せも祈れるようになった。そしてその頃からあいさつをしたら、返って来るようになった。

 そしてその3週間後には、2人は一緒に酒を飲める仲にまでなったのである―。

 

 自分を責める人のことを祈るのは難しい。でも、自分の心を祈ることはできる。

 相手を変えようと思って祈っている限りは、決して相手は変わらないのである…。

 

 ところで、今私は塾生が増えずに困っている。経営が危い。このままでは毎月家賃が払えず、いくらバイトをしても月5万円ずつ赤字が出る。心配でならないのだが、体験解説員の方に聞くと、「お任せよ。お任せすれば、必ず困らないようにさせて頂ける。」と言う。でも、お任せしても何もしなければいけないのではないだろうか。できる努力はしなければならない。でもチラシを配っても、ネットに広告を載せても、たまに問い合わせはあるのだが、入塾まではつながらない。もっともっとチラシも配らなければと思うのだが、バイトが詰まっていてなかなか時間が無く、また時間があってもなかなか反応がないので、やる気も無くなる…。

 

 そこで、私も自分の心を祈ってみようと思った…。

 自分が塾生が増えるための努力ができる心になれますように…。もっともっと仕事を好きになれますように。そして神様にお任せできる心になれますように…。

 

 心配になる度にお祈りする。毎日お祈りしている。

 

   そう、そして御奉仕等、信仰においても今できることをしている…。

 

   時々先が見えない。ますます悪くなっているのではないかという気がする…。それでもお祈りしている…。

 

 全ては心なのだ。まだまだ、信念が足りない…。あっ、これもお祈りだ…!「もっと信念を持って歩めますように…。」「もっとお任せができますように。」

 

 そしていつの日にか私はこの仕事で成功して、誇りを持ってこの神様をやりなさい、と人に勧めるのだ…!