皆さんは、太平洋戦争中日本が使用した特別攻撃機「桜花(櫻花󠄁)」をご存知だろうか?

桜花は、機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射されるという特徴を持っている。

秘匿のため航空機に自然名を付けるという発想から航空本部 伊東裕満中佐によって「桜花」と命名された。

(太平洋戦争末期に使用された桜花の写真)

 

終戦までに11型が製造され755機生産された。桜花で55名が特攻して戦死した。専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われる。

 

桜花を搭載した一式陸上攻撃機(一式陸攻)は桜花の重量により速度が低速となり運動性も大きく損なわれる為、第1回目の桜花攻撃では、アメリカ艦隊の遥か手前で、アメリカ軍戦闘機に母機の一式陸攻が全滅させられ、桜花を射出することもできなかった。

その後、沖縄にて桜花を鹵獲し徹底して調査したアメリカ軍は、桜花が射出されるとその高速の為に迎撃が困難であると分析し大きな脅威と認識した為、射出前の母機となる航空機を最優先攻撃目標として攻撃するように全軍に徹底した。

その為、母機の一式陸攻の多くが撃墜され未帰還率が高くなった。

アメリカ軍の警戒が厳重な中で、桜花は射程が限られており、母機が十分な護衛機無しで投下地点となる目標の近距離まで到達する必要がある為に、多数のアメリカの迎撃戦闘機を鈍重な爆撃機で突破しなければならない状況では、桜花を使用した攻撃が成功する確率は低かった。

その為、桜花母機が最初に接触する敵機動部隊の外周に配置されたピケットラインの駆逐艦に対し攻撃するケースが多くなり、戦果は駆逐艦に集中する事となった。

 

桜花の初陣は、1945年3月九州沖航空戦であった。3月21日までに、通常攻撃と特攻により、第58任務部隊にかなりの損害を与えていると判断していた第5航空艦隊は、偵察機が発見した機動部隊に直掩機が見られなかった事より、損傷艦と誤認しトドメをさす好機到来と判断し、桜花部隊の出動を決めた。

しかし、3月18日には164機もあった五航艦の戦闘機も、3日に渡る九州沖航空戦の激戦で損失や損傷や故障が相次ぎ、桜花部隊の護衛の戦闘機は神雷部隊で32機、203空からの応援が23機で合計55機しか準備できなかった。それを知った神雷部隊司令岡村基春大佐は、援護の戦闘機が少ないことと目標が遠距離であることから中止を五航艦司令部に上申した。五航艦長官宇垣纏中将は「今の状況で使わなければ使うときがないよ」と言って断行した。当時得られた情報では計画通りの目標であったためである。

 

桜花出撃中止を宇垣中将に上申したのは岡村大佐ではなく、五航艦参謀長横井俊之大佐であったという証言もある。横井大佐は第1航空戦隊参謀や横浜海軍航空隊司令などを歴任した海軍航空の専門家で、マリアナ沖海戦では空母飛鷹艦長として参加し、アメリカ軍の防空能力を熟知していた。出撃の命令が出た後に、横井参謀長より護衛機が55機と聞かされた岡村司令が「参謀長、もっと戦闘機を出せませんか?」と食って掛かると、作戦の困難さを十分理解していた横井参謀長は「岡村大佐が55機で不安であれば、出撃を中止せざるを得ないと思われます。」と宇垣中将に出撃中止を進言したが、宇垣中将は岡村大佐の肩に手を置くと、諭すように一語一句ゆっくりとした口調で「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と言い、岡村大佐は「ハッ、やります」と決然と云って挙手をすると、サッと作戦室を後にしたという。

岡村大佐はこの出撃を待ち受けてる悲惨な状況に、危険性が高い任務には指揮官が先頭に立たねばならないと考え、野中五郎少佐に「今日は俺が行く」と言ったが、野中少佐は「お断りします。司令、そんなに私が信用できませんか!今日だけはいくら司令のお言葉でも、ごめんこうむります」と言葉を荒らげて拒否している。野中少佐の人柄より、一度言った事は絶対に撤回しないと岡村大佐は熟知していた為、そのまま出撃は野中少佐に譲ったが、後年に、この時を回顧する度に岡村大佐の目は涙でいっぱいだったという。

  アメリカからの評価

沖縄でアメリカ軍に鹵獲された桜花11型

沖縄戦でアメリカ軍は上陸初日に沖縄の北・中飛行場を占領したが、北飛行場の北東側の斜面に掘られた掩体壕の中から桜花が10機鹵獲された。既に概要の情報を掴んでいたアメリカ軍であったが、鹵獲した桜花を調査し、桜花(この時点ではGizmoと呼ばれていた)が人間が操縦するロケット爆弾であるという事が間もなく判明すると、自殺を禁じるキリスト教的な価値観より、自殺をするような愚か者が乗る兵器という意味合いで「BAKA(日本語の馬鹿の音をそのままアルファベット表記)」というコードネームが付けられた。その運用思想に嫌悪感を覚えたアメリカ軍であったが、兵器としての有効性に対しては強い懸念を示し、早速鹵獲した桜花を本国に送り、アメリカ技術航空情報センターで徹底した調査が行われている。この報告書を戦後に見た桜花設計技術者の三木忠直に「桜花設計時に作った設計書より遥かに詳しい」と言わしめたほどに詳細な調査であった。

最終的な損失 

合計10度に渡る出撃の結果、桜花パイロット55名が特攻で戦死、その母機の搭乗員は365名が戦死した。

そして708飛行隊の桜花母機一式陸攻搭乗員酒井啓一上飛曹の回顧によれば、4月16日の第五回神雷桜花部隊で、戦艦を中心とする十数隻の艦隊に対し宮下良平中尉が搭乗する桜花を射出、その後大きな爆発と水柱が上がったのを酒井上飛曹を含む4名の母機搭乗員が目撃しており、戦艦1隻撃沈と戦果報告している。また4月28日の第六回神雷桜花部隊出撃時も、不意に機動部隊に遭遇し、激しい対空砲火の中で山際直彦一飛曹搭乗の桜花を射出、その後に井上上飛曹と機長らが海上で大火災が起こってるのを確認し、重巡1隻撃沈と報告しているが、このいずれの日もアメリカ海軍の公式被害記録上では報告されたものはなかった。