「犬はね 守ってくれているんだよ
何かに潰れそうになってるあなたを
何かが足りないあなたを
そして次のステップに行きなさいって
完璧なタイミングで去って行くんだよ
神様のお使いですよ」
出典は不詳ですが(イギリスかどこかの詩だったかも)、ネットで見つけたものです。
ティティは、10年前の2014年7月1日に、10歳11か月で虹の橋のたもとにいきました。
そのとき私は、会社勤めを始めて以来約30年の工場勤務から、4月1日付で本社に転勤になったばかりでした。
それまでは片道40分ほどの通勤時間で、通勤時は私服(工場では作業服)、電車に乗るのは3駅、駅から工場まで地元の遊歩道を気ままに歩くという生活から、通勤時間は片道2時間を超え、慣れない窮屈なスーツを着込んで、乗り換え時間も含めて満員電車に1時間半も揺られる生活になっていました。
妻はといえば、昨年まで勤めていた会社を辞め、すこしのんびりしつつ、新しい仕事を探しているところでした。
思い返せば、私たちにそんな日常生活の変化が起きていたときに、ティティはお腹を下しました。
これまでも軟便になることはあり、かかりつけの獣医さんに診てもらって程なく快復していたのですが、そのときは一向に良くなりませんでした。
獣医さんの指導で食餌を換えていき、便の状態は一進一退でしたが、ティティの食欲は戻らず、減退していきました。
診断の結果は、免疫性小腸疾患という、当時の私たちには聞き慣れぬ病名でした。
自己免疫が小腸の内壁を異物と誤判断して攻撃し、小腸から食餌の栄養素が吸収できなくなるという疾患でした。
ティティは、いつも外を眺めていた出窓で寝そべって過ごす時間が長くなりました。
でも物言わぬティティは、自分の辛さを訴えることもせず(時折り庭に出すと、懸命に土掘りをすることがありました。普段はそんなことはしなかったのですが、獣医さんから、痛みに耐えられなくとそのような行為をすることがあると聞き、心が張り裂ける思いがしました)、私たちには穏やかに接してくれました。
ティティがお腹をこわしてから亡くなるまでの3か月、私は介護を妻に任せきりで、何もしてやることができませんでした。
長い通勤時間や本社での馴染めないデスクワークを言い訳にして、自分のペースでティティと妻に接していただけでした。
ティティがなくなり、私たちはペットロスなどという言葉では表現できない深い悲しみを味わいました。
ティティの49日が過ぎたとき、ティティを亡くした悲しみより、ティティが私たちに与えてくれた喜びの大きさをあらためて自覚し、アスティを迎えることを決めました。
それから、ティティにしてやれなかった健康管理や、一緒に暮らす上での効果的なコミュニケーションやトレーニングなどをアスティにしっかりやっていくための知識を身につけようと、犬の飼養管理やカウンセリングの資格取得を目指しました。
そして長い通勤時間を利用して、犬の本を読み漁りました。
それから私は、本社に約3年間勤務した後、希望して工場に戻ることになり、定年に2年残して早期退職しました。
今は個人事業主として、公的機関で小規模事業主を中心とした企業の経営支援の仕事をしています。
メーカーでの工場勤務の経験と、ティティとアスティとの生活、取得した犬に関する資格の知識を活かして、「価値あるものづくりとペットの幸せを願って」を標榜し、とくに犬に関連する事業を行う企業の支援に注力しています。
思えば、ティティを失ったことは私たちにとって最大の悲しみでしたが、冒頭の詩のように、転勤のストレスで潰れそうになっていて、日常生活の目的を失いかけていた私に、次のステップに行きなさいって、ティティは去って行ったのではないかとも思うのです。
アスティとの出会いも準備して。
7月1日は最愛のティティの、命日です。
この時期になると、この時期の空気や天候や景色などが、そのときのことを強く思い出させてくれます。
最愛のティティ
出窓から外を眺めるのが好きでした
お腹をこわしてから伏せる時間が長くなりました
最期のお出掛けとなった南公園にて