苦難の時の宗教という杖 | RYUの生き方、逝き方

苦難の時の宗教という杖

人生苦難の時期に熱心な信仰をもっている人は強いなと思う。

母の大学時代からの親友で熱心なクリスチャンの人がいる。

その人は1人で半身不随の旦那様を、施設にも入れずに自宅介護しているのだ。

食事は三度三度その方が、手で食べさせ排泄の世話からすべて引き受けている。

その上時間が少しでも空くと、親友である俺の母に手料理まで運んでくれる。

本当に頭が下がる人格者だ。

俺にもそんな信仰があればいいなと思うのだが、宗教をどこか覚めた目で見ている自分がいる。

家には亡き父を祀(まつ)ったお仏壇があり、毎日手は合わせお墓参りにも行くが、それは亡き父との対話であり、熱心な仏教徒という訳ではない。

正直今の仏教界に幻滅しているのだ。

以前の記事でも書いたが、世界のどこかで災害があった時、日本のお坊さんが大挙して奉仕活動をしたという話しは聞かない。

今のお坊さんは、檀家参りに忙しくそれどころではないのだ。

うちが檀家のお坊さんは、父の戒名に「院」を入れてもらう時にはっきり「30万からお受けしております。」と言った。

俺は、お金であの世の位(くらい)が決まるとは、とても思えないのだ。

哲学的には、仏教聖典も聖書も読破し少なからず影響を受けているが、それは宗教心とはまた違ったものだ。

これまで何度も新興宗教の勧誘を受けたが、はっきり断ってきた。

そんな覚めた仏教徒の俺だが、人の生まれ変わりや霊魂の存在は、信じている。

今まで何度も不思議な体験をしたからだ。

また伊勢神宮や京都の貴船神社で、身体の不浄な気が神社の持つ清涼な気によって、浄化されるのを感じるのも事実だ。

矛盾しているが、それが俺なのだ。

時間がとれれば、愛犬ウランを祀っている宝塚動物霊園に、娘と行きたい思う。

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