知魚楽(ちぎょらく)
荘子「秋水」の最後に次の一節があります。
ある時、荘子(そうし、紀元前四世紀頃)と恵子(けいし)が川のほとりを散歩していました。
恵子はものしりで議論の好きな人でした。
荘子;魚が水面に出てゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽しみだ。
恵子;君は魚じゃない。
魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか。
荘子;君は僕じゃない。
僕に魚の楽しみがわからないということがどうしてわかるのか。
恵子;僕は君でない。
だからもちろん君のことはわからない。
君は魚ではない。
だから、君には魚の楽しみがわからない。
僕の論法は完全無欠だろう。
荘子;ひとつ議論の根元にたちもどってみよう。
君が僕に、君にどうして魚の楽しみがわかるか、と聞いた時にはすでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知った上で聞いたのではないか。
僕は濠水のほとりで(恵子の質問後)魚の楽しみがわかったのだ。
ある時、荘子(そうし、紀元前四世紀頃)と恵子(けいし)が川のほとりを散歩していました。
恵子はものしりで議論の好きな人でした。
荘子;魚が水面に出てゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽しみだ。
恵子;君は魚じゃない。
魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか。
荘子;君は僕じゃない。
僕に魚の楽しみがわからないということがどうしてわかるのか。
恵子;僕は君でない。
だからもちろん君のことはわからない。
君は魚ではない。
だから、君には魚の楽しみがわからない。
僕の論法は完全無欠だろう。
荘子;ひとつ議論の根元にたちもどってみよう。
君が僕に、君にどうして魚の楽しみがわかるか、と聞いた時にはすでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知った上で聞いたのではないか。
僕は濠水のほとりで(恵子の質問後)魚の楽しみがわかったのだ。