五島で生まれ育った伯母が納豆を食べていたのは、亡くしたつれあいが新潟の人であったからだろうと思う。
どうして西の果てに浮かぶ島の女の子が新潟の小学校の校長先生と縁があったのか不思議だが、考えてみたら伯母にしろ母にしろ、戦前のあの時代に五島から大阪の女学校へ < 留学 > していたお家柄であるから、その方面からの縁談であったかもしれない。
若くして新潟へ嫁ぎ、ほどなく始まった大戦の折につれあいが満州の小学校へ校長として赴任したため大陸へ渡ったが、戦火に巻き込まれてつれあいと二人の男児を失い、伯母は故郷の五島へと戻って来たのである。
その伯母が、毎食、納豆を食べていた。
今でこそ九州の学校給食でも納豆が登場するようになったが、わたしの幼い頃は < 関西より西の人は納豆を食べない > というのが通説だった。
ごたぶんに漏れず我が家もこぞって納豆が嫌いであったので、伯母が黙々と箸で糸巻きをしている隣の部屋が不気味でしょうがない。
「 美味しくて身体にいいんだから、食べてみなさい 」
ある日のこと伯母にそう言われて、生まれて初めて口にした納豆。
その味は子供心に大きな衝撃を与えた。
刺激的なにおい!
取れないネバネバ!
身体は即座に拒否反応を示し、その前に食べた冷奴やワカメの味噌汁が一気に外界へ放流されたのだった。
しかしながら、わたしは納豆を食べる人が嫌いなわけではない。
隣で納豆を食べる人がいてもまったく構わないし、それが嫌なワケではないから表情が変わるわけでもない。
寮の先輩がわたしの部屋で飲み明かす夜には、ハンペンに納豆を挟んでバター焼きにするなど、納豆を自ら調理することも吝かではなかった。
実際、成人してからこれまでつきあってきた人は一人残らず納豆好き。
デートは一膳飯屋で、相手の注文は < やまいも納豆 > なる、短冊やまいも ・ 納豆 ・ 生卵という最強の糸引きトライアングルであることもザラだった。
自分で食べることも努力しなかったワケではないが、長いこと患っていた父の薬が納豆菌との副作用で呼吸困難を来たすからと医者から止められていた期間もあって、もうずいぶん納豆と関わらない年月を過ごしている。
ま、まずはにおいから克服しないとね・・・。
諫早か大村のスーパーで買い物中、納豆を手ににおいを嗅いで涙目になりながら嗚咽を堪えている女性がいたら、それは間違いなくわたしである。
ぜひ善意の声援をかけてほしい。
そんなワケで納豆を見ると、美味しそうに食べていた伯母の姿と、医者に納豆禁止令を受けて歓喜していた納豆嫌いの父の姿を思い浮かべるわたしなのだった (--)